いまの首相と二つの岸―こちら側とあちら側

 二つの岸がある。こちら側とあちら側だ。いまの首相は、こちら側の岸からあちら側の岸に横すべりしてしまっている。あちら側の岸に行ってしまっている。

 こちら側の岸にいるのであれば、まだ最低限において話は通じる。よいことと悪いこととの分別がつく。その分別にもとづいて、これはよいことでこれは悪いことだという共通の了解がなりたつ。

 あちら側の岸に行ってしまうと、共通の了解がなりたたなくなる。こちら側の岸とあちら皮の岸とのあいだに隔たりがおきる。それぞれの個別の了解があるだけになって、互いのあいだにみぞがおきる。交わることがない平行線が引かれたようになる。

 国会においてうすら笑いを浮かべているいまの首相のことを見てみると、こちら側の岸にいるとは思いづらく、あちら側の岸に行ってしまっているのではないかといぶかしむ。あちら側の岸に行ってしまっていることで、虚無主義や空虚さや善悪の彼岸のようなものを思いおこさせる。大きな物語の終えんだ。

 虚無主義や空虚や善悪の彼岸は、なにもいまの首相だけに限ったことではないかもしれない。虚無になったり空虚になったり善が悪に(または悪が善に)転倒したりといったことは、いまの時代の風潮としてあるものだと見なすことができる。それが強かったり弱かったりという度合いのちがいがある。

 虚無や空虚による悪は、対象化することができづらい。対象としてとらえることがむずかしい。分別による善と悪の彼岸にある。そこで、いっそのこと時の政治の権力と一体化しようとしてしまうことがおきてくることがある。時の政治の権力とのゆ着がおきて、そこからの呼びかけに応じさせられる圧がはたらく。空気を読まされたり忖度させられたり同調や服従を強いられたりすることがおきてくる。

 はじめからあちら側の岸にいたのではないだろうけど、いつのまにかこちら側の岸からあちら側の岸に横すべりして行ってしまった。片道になっていて、行って帰ってこれなくなっている。もしも、きちんとこちら側の岸にいつづけているのであれば、もっとまともな対応が色々にできることがのぞめる。国民の一部からの声がもっとすくい上げられて、受けとめられることがのぞめる。それができていないから、そのことを重く見なすのであれば、岸を異にしてしまっているのがあるのだと見なしてみたい。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『哲学者だけが知っている人生の難問の解き方』平原卓(すぐる)