責任があることと、だから何なのか(so what?)―具体性がなく、無責任体制になっている

 政治の責任をとらない。または、責任があると言うだけですませる。いまの首相による政権にはそうしたところが見うけられる。

 政治の責任を取るべきなのにそれを取らないのはおかしいことである。説明の責任を果たすべきなのに果たさないで、とり沙汰されている疑惑などにまともに向かい合おうとするのを政権は避けている。

 責任があると言うだけで、責任を取ろうとはしないのは、責任があるから何なのかの、何なのかが欠けていることによるのだと見られる。何なのかというのは英語では so what? ということであって、だから何なのか(だからどうなのか)ということである。

 責任があると言うからには、だから何なのかというところが大事になってくるが、その大事なところが欠けてしまっている。具体性を欠いている。

 責任がないのだとしたり、責任があると言うだけですませたりするのは、責任をまともにとることにはなっていなくて、無責任体制になってしまっている。

 きちんとしたすじ道を通すのであれば、責任があるのか無いのかをはっきりとさせて、責任があるのならそれでどうなのか(so what?)のところをしっかりとさせて、そこを具体的にやって行かなければならない。きっちりとさせるのであればそれがいるが、責任があるのか無いのかよくわからなくて、また責任があるならあるで、あるのだと言うだけでそれですませられるようになってしまっている。

 ほんとうの意味で責任があるとか、責任を取るとはどういうことなのかというのがなくて、そこがあいまい化してしまっている。誰にどのような責任があるのかというのがうやむやになる。責任のがれを許すようになってしまっている。

 責任があるのにも関わらずないことになって、それでよしということになって、空気がものを言うようになる。空気がものを言うありかたに抗うことが、責任をとってもらうということであって、責任を果たしてもらうということではないだろうか。

 参照文献 『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹(たつる)編 『ポケット図解 ロジカル・シンキングのポイントがわかる本 第二版』今井信行