野党の共闘の秘訣:政党名から考察する

 なんで野党どうしで共闘し合えていないのだろうか。

 どうやったら野党どうしで共闘し合いやすくなるだろうか。まとまりやすくなるだろうか。

 どこに目をつけるのかで、政党の名前に目をつけてみたい。そこに着眼してみる。

 どういう政党が政権をとりやすいのかがある。

 政権をとりづらい政党は、名前が無難なものではない。当たりさわりがないものではない。

 だれも文句をつけられないような名前の政党は、政権をとりやすいのである。

 みんなが良しとするような、誰もけちをつけないような政党の名前だと、政権をとることができる。

 いまの与党は自由民主党だ。自民党は、自由と民主と名のっている。自由や民主は、当たりさわりがない。無難さがある。誰もけちを付けないものである。

 たとえ自由や民主を名のっていても、じっさいにできていない。実行ができていない。名のっていることができていないのはあるけど、これは日本が抱えるまずさも関わる。

 自民党ではなくて、名前が裏金党だとする。うら金党だったら自民党の実際のありようだ。じっさいのありようではあるけど、うら金とは何ごとだとなる。多くの人々に受け入れられるものではない。お金がすべての拝金党とか、お金と票がすべての金票党なんかでもさしさわりがある。冷笑(cynicism)党なんかも駄目だ。

 冷笑主義が悪いのは、独裁につながるからである。独裁をうながす。批判党なんかはよい。批判がどしどしなされるのはよいことだけど、批判が否定されがちなのが日本の政治である。あらゆる政治家や政党は、他からの批判に開かれていることがいる。

 批判党といえば、野党のれいわ新選組は批判の力が高いけど、皮肉のところもある。皮肉党のところがあり、そこはあまりよくない。皮肉を言うのであるよりも、与党の自民党をどしどし批判して行く。それと共に、あらゆる政治家や政党は、他からの批判に開かれているようにして、批判をこばまないようにしたい。他からの適した批判は値うちをもつ。

 日本が抱えているまずさでは、抽象論が遠いのがある。自由や民主は具体論ではなくて抽象論のものだけど、それが遠い。日常から遠いものになってしまう。日常に近くない。

 日常から遠くなってしまうのが抽象論である。自由や民主は抽象論によるものだけど、それが日常に根ざしていない。抽象論が日常に近くなって、日常に根ざすようになればよいけど、遠さがあるのである。

 具体論によるのであるよりも、抽象論による方が、まとまりやすい。そのしょうこに、政党の名前に抽象論によるものが使われていることが多い。自民党の自由と民主は抽象論だ。これだと当たりさわりがなくて無難さがあるから、政治家どうしがまとまりやすいのである。

 野党どうしがまとまり合うために、抽象論を使ったらどうだろう。政党の名前をもち出す。使えるものとしては、自民党の自由と民主がある。野党では、立憲民主党立憲主義がある。

 日本維新の会は、使えない。日本は特殊なものだし、維新もそうだ。

 国民民主党は、民主のところは使える。国民はくくりがちょっと大ざっぱであり、外国の人などを排除してしまうから(一見すると良さそうではあるけど)必ずしもよくない。

 日本共産党の共産は使えない。共産主義だと左すぎる。右の人が良しとしないだろう。

 社会民主党は使える。社会民主主義(social democracy)だったら、左派の政治家どうしはまとまり合えるだろう。左派の政党どうしでまとまり合える。日本は社会民主主義が弱いのがあり、それをもっと強めて行くことがいる。社会民主主義はおだやかな左である。極端なのや過激なものではない。

 しっかりと民主主義が根づいている国は、抽象論が日常に近い。抽象論が日常から遠くない。抽象の語が、日常に根づいていて、日常でも使われる。

 いまの日本は民主主義がしっかりと根づいているとはできそうにない。日本の民主主義は、つまり戦後の民主主義だ。戦後の民主主義がかなり危機におちいっているのがいまの日本の政治だろう。

 なんで野党どうしで共闘し合えなくてまとまり合えないのか。体系(system)としてそれを分析してみると色々な要因がありそうだ。一つの要因だけにしぼれないだろうけど、その中の一つの要因としては、抽象論が日常から遠いのが日本にはある。

 せっかく抽象の語が政党の名前に使われることが多いのに、それが生きていない。じっさいに実行できていないのである。あんまり実行できていないのはあるけど、野党どうしが共闘し合い、まとまり合うために、政党に付けられている抽象の語を活用するのはどうだろう。

 いまの野党の第一党は立憲民主党だけど、立憲主義の野党どうしでまとまり合う。立憲主義だったら論争がおきない。一人勝ちになるようなものだったら論争がおきないからお互いに共闘し合える。まとまり合える。一人勝ちとは、多くの人が認めるようなものだ。

 政党の名前だったら、たとえば消費税(減税、廃止)党だとお互いにまとまりづらい。論争がおきてしまう。一人勝ちになかなかならないから、政治家どうしや政党どうしがまとまり合うことには不適当だ。

 具体論によるのだと論争がおきてしまう。民主主義において論争がおきるのは良いことだけど、政治家どうしや政党どうしがまとまり合うためには上位(meta)によるのが適している。たとえば消費税党だったら論争がおきてしまうから、それよりも上位にするようにして、一人勝ちになるようにして行く。

 より上位のものとしては、すでに政党の名前として使われているものがよい。自由や民主や立憲主義などだ。下位のものでまとまりづらいのだったら、それを上位にしてしまう。部屋でいえば、立憲民主党が一つの部屋だとしたら、部屋の壁をとり払う。

 抽象論である立憲主義をもち出すようにして、部屋の壁をとり払い、部屋どうしをつなげる。部屋の改築みたいなことを行なう。大部屋にする。小部屋になってしまっているのがいまの日本の政治のありようだ。

 論争がおきていて、小部屋にとどまっている。それがいまの日本の政治である。改築されていない。たとえば消費税党みたいにしてしまうと、大部屋にならなくて、小部屋にとどまってしまう。

 大部屋にするためには、抽象論の政党の名前なんかを使うのは手だろう。いまは力が弱まっているけど、野党の社民党の、社会とか社会民主主義なんかはかなり大事だ。いまは力が落ちているから目だたなくて目を向けられていないけど、そうした中で社民党に目を向けてみたい。

 社民党は力が弱いけど、そのいっぽうで、社会や社会民主主義の重みはけっこう重い。社会がこわれてしまっているのがいまの日本にはあるから、社会を重んじて行くことがいる。社会に危機がおきているのがあるから、社会に着眼して、そこにもっと目を向けるようにしたい。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『社会(the social) 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「戦争と知識人」を読む 戦後日本思想の原点』加藤周一 凡人会 『社会認識の歩み』内田義彦(よしひこ) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗

れいわ新選組と政権交代:理想論や正義論と大義

 政権交代したほうがよいのだろうか。

 どの政党が政権交代するかがある。それによって値うちがちがってくる。

 野党のれいわ新選組が中心になって政権交代したら、すごい値うちがある。れいわの支持者の人はそう見なす。

 あんまり値うちがないのが、いまの野党の第一党である立憲民主党による政権交代だ。

 なんでそんなに値うちがないのかといえば、立憲民主党自民党とそこまでちがわないからだ。与党である自由民主党と似たりよったりなのだ。

 自民党をたおす。やっつける。自民党をたおすことにすごい値うちがあるのだったら、野党どうしがまとまり合える。野党の共闘がなり立つ。

 どうしても自民党をたおすことがいる。どうしても政権の交代がいる。政権の交代が大義になるとすれば、野党どうしでまとまり合えて、共闘がなりたつ。

 れいわ新選組が中心になって政権の交代をするのなら、大義になる。れいわの支持者であればそう見なす。

 どの政党が中心になるのかで、立憲民主党による政権の交代であれば、あんまり大義にならない。

 政権の交代が大義になるのであれば、みんなにとってすごい良いことなのを示す。立憲民主党だとそれがなりたちづらい。れいわの支持者の人が不満をいだく。満足できない。

 現実論と理想論にふ分けしてみると、現実論の政権の交代なのが立憲民主党によるものだ。理想論の政権の交代はれいわによるものである。

 とんでもなく良くなることが望めるのが、れいわによる政権の交代だ。理想論による政権の交代である。

 そんなに良くなることが望めないのが、立憲民主党による政権の交代だ。理想論ではなくて現実論によるものだからである。

 あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるのか。菅直人元首相の夫人による問いかけだ。それと同じように、立憲民主党による政権交代で、いったい日本の何が変わるのか、と問いかけることがなり立つ。

 どこまでの望みを政権の交代に抱けるのかがある。れいわが中心になるのだったら、(れいわの支持者にとっては)大義になるから、とんでもなく望みを抱ける。すごい高い望みをもてるのである。

 そこまで政権の交代に望みをもてない。どの政党か(れいわか、立憲民主党か)によってちがいが起きるのであるよりも、むしろ政権の交代そのものにそこまで望みを持てないのである。どの政党が中心になるのであれ、政権の交代をしたところで、そこまで変わらないのである。

 望みを持てたり持てなかったりするのであるよりも、それを持てない現実をつきつけられる。日本の現実を見てみると、望みを持ちづらいのがあって、その現実をつきつける働きをするのが立憲民主党だ。現実から目をそむけないで、現実から逃げないようにするのなら、あんまり望みを持てないことになる。

 だから何なんだ(so what?)となるのが、立憲民主党による政権の交代である。あんまり自民党と変わらないのであれば、政権の交代をしたところで、だから何なんだとなる。

 なんで政権の交代をしても、(おおすごいなとはならないで)だから何なんだとなるのかといえば、日本の政治の不信が根深いからなのがある。政治への不信や猜疑(さいぎ)が強い。政治を信頼できない。そうかんたんに、政治への不信がなくならない。

 政権の交代をしても、政治への不信はそうたやすくは無くならないから、立憲民主党による政権の交代は、大義になりづらい。だから何なんだにならざるをえないのである。だから何なんだになってしまうのはあるけど、逆にいえば、そうなったほうが良いのもある。

 なんで政権の交代が大義にならないほうが良いのかといえば、現実はそんなものだからである。現実論によるのだとすれば、期待をそこまで持てないのが日本の現実だ。期待が大きければ大きいほど、うら切られたときに受ける打撃も大きいから、あんまり期待しないほうがうら切られづらい。

 思った通りになるのなら良いけど、そうならない。思っていたのとちがう。期待がうら切られてしまう。確かなのではなくて不確かさがある。不確実性だ。確実にこうだとは言い切れないのがいまの時代である。断言できづらい。先行きが不透明だ。未曾有(みぞう)である。

 すごい不信がおきているのがいまの日本の政治だから、そんじょそこらのことではそれが無くならない。並みたいていのことでは改まらないのである。すごい不信があるのが、うって変わってすごい信頼できるようになったら、日本ばなれしている。日本の政治ではないみたいだ。

 不信や猜疑があったほうが日本の政治らしい。乱ざつさ(entropy)がすごくたまっていて、負によっているのが日本の政治だ。日本らしからぬものなのが、信頼できる政治だ。信頼の社会へ移ることがいるのがいまの日本だけど、めどがまったく立っていないのが現状である。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙(だま)されない!』伊藤芳朗(よしろう) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『政治家を疑え』高瀬淳一 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編

民主主義の二大政党制とはいったい何か : 自民党と立憲民主党の比較

 立憲は、自民党と同じなのか。それともちがうものなのだろうか。

 野党の第一党である立憲民主党は、与党と同じだ。与党である自由民主党とそう変わりはない。似たものどうしだというのである。

 数でいえば、少なくとも二つのものがいるのが民主主義だ。二つのものはないとならない。与党と野党だ。

 二つなければならないけど、一つだけしかない。立憲民主党自民党が同じようなものなのであれば、一つだけしかないことになる。見せかけの二大政党制であり、じっさいには一大政党制なのである。

 しっかりと二大政党制ができていれば数が二つだ。一大政党制だと一つしかないからまずい。

 現実の政治では、しっかりとした二大政党制はなりたちづらい。二大政党制と一大政党制のあいだのようになってしまう。

 アメリカでは共和党民主党の二つがあるけど、しっかりとした二大政党制ではなくて、一・五大政党制のようである。共和党民主党は、お互いに似てきてしまう。似たところがおきてしまい、そこまで大きな差がなくなる。

 二つの政党が競い合っているアメリカであっても、二大政党制であるよりは一・五大政党制のようになる。

 すごい良い政党とすごい悪い政党だったら、水準や次元がちがうから、ぶつかり合いにならない。お互いに似かよっていて水準や次元が同じくらいだからこそぶつかり合う。二であるよりは一・五くらいだからこそ、おたがいに争いになるのである。

 すごいかしこい者とすごいおろかな者どうしだったら水準や次元がちがうからけんかになりづらい。人(やその集団)はたいていはばかである。とくに集団だとばかになりやすい。人でも集団でも、虚栄心にかられてつっ走って行く。自然の状態(natural state)だとそうなる。戦争の状態だ。社会契約論による。

 アメリカと同じように日本でも立憲民主党自民党が似たものどうしのようになってしまうのはあるていどはしかたがないことかもしれない。一・五大政党制のようになる。どうしても似たところがおきてしまうのである。

 一つしか数がなくて一大政党制であったとしても、その一つのものが良いものであることがある。一つのものが悪いのだったらよくないけど、良いものだったとしたらどうだろうか。

 たとえば野党のれいわ新選組が政権をとったとして、れいわによる一大政党制をなす。れいわは良いものだとすると、れいわによる一大政党制は良いものなのだとできなくはない。

 たとえ良い政党であったとしても、その政党による一大政党制になると、民主主義ではなくなってしまう。民主主義では少なくとも二つのものがいる。一つだけしかないと民主主義はなりたたない。

 いまの日本の政治を見てみると、二つのものがなりたっていない。アメリカだったら、共和党民主党で二つあるけど、じっさいには一・五だ。

 アメリカは一・五のようになっているが、日本はそれにすらなっていない。民主主義がなりたっていない。日本は一つだけしかない。自民党専制や独裁である。一強のあり方だ。

 自民党の一強であるとともに、野党はばらばらだ。野党はまとまることができていなくて、共闘できていないのが日本である。

 野党どうしで共闘できていないと、複雑すぎる。色々な小さい政党が乱立していると、拡散することになる。あるていど収縮させることがいり、与党と野党で大きな二つの政党にするとたんじゅん化することがなりたつ。

 自民党に立ち向かうために、ばらばらな野党が一つにまとまって行く。野党どうしで共闘することができれば、与党と野党で二つになるから、民主主義がなりたつ。

 野党が共闘してまとまるとなると、たんじゅん化しすぎることになり、二つであるどころか一つになってしまう。自民党だけのあり方だ。自民党と似たものどうしになってしまう。二つにしようとすると、それが行きすぎて一つになってしまうのがあり、それを批判しているのがれいわ新選組だろう。

 さいていでも二つのものがいるのだから、一つしかないあり方を批判して行く。自民党の一つだけしかないあり方を批判するさいに、じゃあ二つのあり方にしようとすると、二つが行きすぎて一つになってしまうのが批判される。二つにしようとしても、じっさいにはせいぜい一・五にしかならないから、一つのあり方に近いところはある。

 うまいぐあいに拡散しているのを収縮させるのがむずかしい。一つだけしかないと収縮させすぎであり単純化しすぎになる。そうかといっていまの日本の政治のように野党がまとまれなくて共闘できないのもよくない。野党がばらばらだと拡散しすぎている。

 一つだけのあり方なのは収縮しすぎだから、それを批判すると、拡散しすぎてしまう。拡散しすぎているのを批判すると、収縮しすぎてしまう。二つのものがいるのが民主主義なのだとはいっても、うまいぐあいに二つにならなくて、じっさいには一・五ぐらいが限界だ。せめて二つのものがないと、国の中にいる色々な人たちの色々な声を十分にすくい切れない。色々な声がある中で、とり落としができてしまう。

 良いものが一つだけあればそれで十分だ。自民党は良い政党なのだから、それが一つだけあれば良いとする見かたがあるかもしれないけど、それだと収縮させすぎだ。野党に目を向けてみると、野党どうしがばらばらになっていると拡散しすぎている。

 野党どうしをまとめようとして、収縮させようとすると、収縮しすぎになり、二にするのが行きすぎて一・五とか一とかになりかねないのである。そこのところがむずかしい。なかなかちょうどよくつり合いを取りづらいのがあり、収縮させすぎであり、かつ(野党においては)拡散しすぎでもあるのがいまの日本の政治だろう。

 かくあるべきの当為(とうい)は一つであり、かくあるの実在は二より以上である。かくあるの実在だと二より以上だから、それを収縮して行く。拡散しすぎているのを収縮するのがいるけど、行きすぎると一つだけのあり方になってしまう。かくあるべきの当為だ。

 かくあるべきの当為によるのだと、一つだけしかないから、収縮しすぎであり、かくあるの実在をとり落とす。かくあるの実在には色々な人の色々な声があり、それが大事なのがあるけど、色々な声がありすぎて拡散してしまう。かくあるの実在のところを重んじつつも、拡散しているのをあるていど収縮したほうが良いのがある。

 絶対論ではなくて相対論によるのが民主主義だ。政治における相対論の表現なのが民主主義である。日本の政治では、野党どうしがまとまって共闘できたほうが良いのがあるけど、それは相対の正しさにとどまる。

 たとえ野党どうしが共闘するべきだとはいっても、かくあるべきの当為だと一つだけになってしまうから、かくあるの実在のところを見て行くことがいる。かくあるの実在では、れいわ新選組なんかは野党の共闘に積極ではなくて消極だから、かくあるの実在には色々な声があるのは確かだ。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『「縮み」志向の日本人』李御寧(いーおりょん) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『法哲学入門』長尾龍一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし)

消費税とアベノミクスの成否 : 状況の分析から見えてくる真相

 消費税に、状況をもち出す。状況をくみ入れてみる。

 状況の思考によって消費税をとらえてみるとどういったことが分かるだろうか。

 なんでアベノミクスは失敗したのかがある。なぜ安倍晋三元首相のアベノミクスは失敗してしまったのかで、消費税を上げたからだとされるのがある。

 消費税を上げたうえで、そのうえで消費税をとり巻く状況をよくする。アベノミクスがもしも成功していれば、消費税をとり巻く状況がうんと良くなっていたはずである。

 上げなければよかったものなのが消費税なのだとはできそうにない。アベノミクスが成功するかしないかは、消費税を上げるか上げないかにかかっていたのではない。消費税を上げたうえで、さらにそれをはねのけるくらいに状況を良くすることができる。それくらいのすごいことが、アベノミクスには期待されたのである。

 縮みと広がりの二つをもち出してみると、広がりによっていたのがアベノミクスだ。広がりとは、消費税をとり巻く状況をうんと良くできるものだ。消費税を上げることによっておきる負のところを、ふき飛ばす。消費税によってもたらされる負のところをうわ回るような正をもたらす。

 広がりによるのではなくて縮みによってアベノミクスをとらえることもなりたつ。縮みによるのであれば、状況を良くできない。消費税をとり巻く状況を良くすることができないから、消費税を上げたら負のことがおきてしまい、それが重くのしかかる。負が、正をうわ回ってしまう。

 縮みによるのではなくて、広がりによっていたのがアベノミクスだ。広がりを目ざすものだったけど、期待がうら切られた。成功すればよかったけど、失敗してしまったので、その失敗をごまかすために、縮みがもち出されているのである。もともと広がりによっていたのが、縮みにすり替えられている。

 成功できずに失敗してしまったのがアベノミクスだけど、状況を良くすることはやりようによってはできるかもしれない。

 広がりによるような、うんと経済を良くしたり成長させたりすることができれば、消費税によっておきる負のところをはねのけられる。それだけではなくて、状況を良くするためには、ほかのやり方もある。

 財務省は、すごいきらわれている。不信や猜疑(さいぎ)を持たれているのである。緊縮の財政を教義(dogma)にする。教条主義の宗教だ。ざいむ真理教とも言われているのがあるから、財務省と人々とが、共に対話して行く。おたがいに交通(communication)し合う。合意を目ざす対話をして行く。交通の行動だ。

 政治において、統治(governance)が悪いのがわざわいしているのが日本である。統治についてを問いかけてみると、悪くなっている。そのことが、消費税に悪く働いている。人々の租税(そぜい)への抵抗がよけいに強まる。もともと日本人は租税への抵抗が強いとされているけど、それがなおさら強まってしまう。租税の抵抗とは、税金を払うのをきらうことだ。

 よい統治だったら、日本は良くなる。人々が生きて行きやすい。幸福になりやすい。不幸になりづらくなる。よく生きて行くこと(welfare)がなりたつ。

 目に見えないものなのが社会関係資本(social capital)だ。社会関係資本が厚ければ、状況を良くできる。消費税をとり巻く状況を良くしやすいけど、厚みがうすい。安倍元首相は経済ではアベノミクスをやったけど、それ以外の政治においては、社会関係資本の厚みをめちゃくちゃうすくしてしまった。

 アベノミクスが失敗したのに加えて、経済ではないそれ以外のところで、安倍元首相の政権は、状況を悪くした。社会関係資本の厚みをうすくしてしまい、消費税をとり巻く状況が悪くなった。

 それそのものではなくて、その周りのところである、消費税をとり巻く状況をとり上げてみると、状況が悪い。状況が悪いから、消費税がすごいとんでもなく悪い税みたいに見なされている。とてつもなく悪い法(法律)であるかのようにされている。不正な制度のようにされている。

 それそのものを改めるのでも良いけど、それとはちがうものとして、状況を良くして行く。状況を良くすることが目ざされていたのがアベノミクスだ。そのように見なしてみたい。そう見なしてみた上で、状況を良くすることができなかった。アベノミクスは失敗したのである。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『環境 思考のフロンティア』諸富徹(もろとみとおる) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『入門 パブリック・リレーションズ 双方向コミュニケーションを可能にする新広報戦略』井之上喬(たかし)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)

期待をあまり持てないものとしての立憲民主党:自民党との共通点と相違点

 なんで、自民党と立憲は、同じだと見なされてしまうのだろうか。

 与党である自由民主党と、野党の第一党である立憲民主党は、同じようなものなのか、それともちがいがあるのだろうか。

 野党であるれいわ新選組だったら、はっきりと、消費税の減税や消費税をなくすことをかかげている。消費税にかんして自民党とのちがいがある。自民党は消費税を下げたりなくしたりすることには消極である。

 政党としては、消費税を下げたりなくしたりすることをはっきりと示してはいないのが立憲民主党である。そこから、自民党とそうちがいはないのだと見なされてしまう。自民党と同じようなものだ。

 明と暗のように対照になっているととらえやすい。離散(digital)のありようだ。反対となるものがあれば物のりんかくがはっきりとする。政治では、味方と敵に分ける。友敵の理論だ。味方と敵のあいだにしっかりと線を引く。二分法だ。

 うす明るいとかうす暗いようだととらえづらい。連続(analog)のありようだ。連続だと対照ではないから連なっているようである。つながり合う。分節されない。両義性(ambiguity)である。

 いまの日本の政治は自民党が力をもっている。そのありようを世界だとしてみたい。世界の中に、立憲民主党が含まれるかどうかがある。含まれれば自民党とちがいはない。含まれなければ自民党とはちがいをもつ。

 世界は、自民党が力をもつありようだ。そこに含まれないものとしては、野党のれいわや日本共産党をあげられる。れいわや共産党は、反世界である。世界の中からは排除されている。

 いまの日本の政治において何がいるのかといえば、消費税を下げたりなくしたりすることであるよりは、反世界がいる。世界から、反世界に転じて行く。

 自民党が力をもつ世界のありようが客観や本質に悪いとはできないけど、それが保たれつづけることで、乱ざつさ(entropy)がたまりまくっている。乱ざつさを外に吐き出せなくなっている。乱ざつさを外に吐き出すためには世界を反世界に転じて行く。

 はたして世界なのか反世界なのかがびみょうなのが立憲民主党だ。同じようにびみょうなのが、野党の日本維新の会や国民民主党である。維新の会や国民民主党は、世界に含まれているのだととらえることがなりたつ。第二自民党だ。

 いろいろに線を引くことができるのが政治だから、立憲民主党は世界に含まれている、つまり自民党と同じようなものだとすることがなりたつ。それだけではなくてちがう線の引き方もできて、立憲民主党は世界には含まれていない、つまり反世界なのだとすることもできなくはない。

 かつての日本の江戸時代でいえば、世界のありようは幕府がつづくことである。立憲民主党は幕府の中に含まれるのだとしたら、立憲民主党が力をもったところで、第何代の幕府がつづくことになる。幕府が倒れるわけではない。

 幕府を倒すのだったら、世界から反世界に転じることになる。あんまり立憲民主党に望みを持てないのは、立憲民主党が力をもったところで、幕府がたおれず、幕府がずっと続きそうだからだろう。

 なにがいるのかといえば、世界から反世界に転じることだ。反世界に転じることによって、世界にたまっている乱ざつさを外に吐き出すことがなりたつ。世界にたまっている汚れをそうじできる。

 大そうじをしないとならないのがいまの日本の政治だ。何が何でも消費税を下げたりなくしたりすることにこだわらないのであれば、大そうじをして行くことを重んじることがなりたつ。世界にたまっている汚れを、そうじすることによってきれいにして行く。

 そうじの役をになうのは、世界に含まれていない、つまり反世界のものだ。そうじの役をになえるのかになえないのかがびみょうなのが立憲民主党なのである。維新の会や国民民主党もびみょうだ。

 維新の会なんかは、むしろ関西においては汚れをためていっている。関西で力をもっているのが維新の会であり、そうじをするどころか、関西をどんどん汚くしていっていて、乱ざつさをためまくっている。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 明らかにそうじの役をになえないのだと断言はできないのが立憲民主党だ。いっさいそうじすることができないとまでは強調できない。もしかしたら、世界のありようの中にたまっている汚れをそうじできるかもしれない。

 ふ分けをしてみると、消費税を下げたりなくしたりすることと、そうじすることを分けてとらえることがなりたつ。消費税を下げたりなくしたりすることはうんと言われているけど、そうじすることはあまり言われていない。

 そこまで重んじられていないのが、世界のありようを掃除することだ。消費税を下げたりなくしたりすることがうんと言われすぎているけど、そうではなくて、それよりも世界のありようをそうじすることのほうがより重要だ。世界を反世界に転じて行く。世界に含まれていると、自民党と同じようなものだから、そうじの役をになえない。

 動機づけ(incentive)の持ち方しだいでは、そうじの役をになえるのが立憲民主党だろう。たとえ世界には含まれていなくて反世界にあるからといって、そうじへの動機づけ(motivation)が高いとはかぎらない。

 野党であるれいわなんかは世界に含まれていなくて反世界にあるけど、そうじへの動機づけはそこまで高くはなくて、それよりも消費税を下げたりなくしたりすることへの動機づけが高くなってしまっている。

 れいわは、動機づけの持ち方を変えて、消費税を下げたりなくしたりすることよりも、世界のありようをそうじすることへの動機づけを高くするほうが良い。(消費税を下げたりなくしたりすることに比べると)そこまでそうじすることへの動機づけが高くはないのがれいわだけど、自民党への批判や、日本の政治への批評では、けっこう良いこと(するどいこと)を言っているのはたしかだ。

 れいわにはうんと希望をもてるけど、立憲民主党には希望をもてない。絶望をいだく。消費税を下げたりなくしたりすることに積極なのがれいわだから希望をもてるけど、立憲民主党自民党と同じで消極だから絶望をいだいてしまう。希望と絶望ではそうしたふうにもできるけど、中国の文学者の魯迅(ろじん)はこういう。希望は虚妄であり、絶望もまた虚妄であるという。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『法哲学入門』長尾龍一原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『デジタル思考とアナログ思考』吉田夏彦 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『はじめての批評 勇気を出して主張するための文章術』川崎昌平(しょうへい) 『希望のつくり方』玄田有史(げんだゆうじ) 『魯迅に学ぶ批判と抵抗 佐高信の反骨哲学』佐高信(さたかまこと) 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利

抗争しあう知事と役人:兵庫県の内部告発と正義論

 知事と役人がぶつかり合う。争い合う。

 知事と役人とのあいだで対立がおきたとしたら、知事が正しいのだろうか。役人がまちがっているのだろうか。

 民間人は正しいけど、役人はまちがっている。役人のことをだめだとする。学者や知識人をたたく。非民間人ならば、価値が低い。野党である日本維新の会のあり方だ。

 兵庫県では、役人が内部告発をして、知事を批判した。知事と役人が争い合う。地位は知事のほうが上だから、役人に圧力をかけた。圧力をかけられたこともあり、これまでに役人の中で二人の自殺者が出ている。

 内部告発をされて、二人の自殺者が出てはいるけど、知事をかばう声もある。正しいことをやっているのが知事だ。既得の権益とたたかう。悪いものと戦っているのがあり、それで知事は批判にさらされているのだという。悪いものから攻撃を受けている。

 三つの点から、知事と役人のぶつかり合いを見てみたい。主体と手段と争点の三つの点だ。

 主体としては、二人いる。知事と役人だ。手段としては、知事は権力の乱用をした疑いがある。自分の地位を不当に使った。それで下の役人に圧力をかけたのである。

 悪い手段を使ったわけではないのが役人だ。使っても良い手段を使ったのがあり、内部告発の制度を使ったのである。合法だ。切り札としての権利を使ったのである。

 悪いことをした疑いがあるのが知事だ。それで役人から内部告発されたのである。知事が悪いことをかげでしていたのかどうかが争点だ。

 どういうことを知事はやるべきだったのかがある。批判をしてきた役人をおもてなしする。役人を客むかえ(hospitality)する。承認して行く。否認するのだと良くない。

 もとから役人のことを否認していたのが知事だろう。役人のことを承認していなかった。関西で力をもつ維新の会は、役人のことを叩いている。民間人に比べてひどく劣っているのが役人なのだとしている。民間人はえらいけど、役人は悪いのだと見なす。学者や知識人は悪い。偏見である。

 民間人よりも劣っているどころか、すごく見こみがあるのが、知事を批判した役人だろう。民間人であったとしても、だらしがない人は少なくない。上の地位の人を批判しない。上の地位の人が悪いことをやっていたとしても、見て見ぬふりをしてしまう。

 もともと役人は民間人よりも劣っているのがあり、その上、知事のことを批判する役人はなおさら悪い。兵庫県の知事は、そのように見なしたのかもしれない。はじめから、役人にたいして偏見を持っていたのが災いしたのである。

 まちがった偏見をもたないようにしたい。民間人に比べて役人は劣っているのだとはしないようにして、そのうえで、役人のあり方に悪いところがあればそこを批判するのはあってよいことだ。

 役人が批判されるだけではなくて、知事も批判されなければならない。知事に悪いところがあるのだとすれば、どんどん批判して行く。ばしばし上の地位の政治家を批判して行く。

 批判にたいして開かれていないとならないのが知事だ。役人もまた、批判に開かれていることがいる。批判をこばむのは良くないのがあり、他からの批判にたいして開かれているのがいる。

 とくに悪い手段を用いたのではないのが役人なのだから、知事は役人からの批判を受けとめて行く。役人をおもてなしする。争点を片づけるようにして行く。切り札となる権利を使っただけなのが役人なのだから、許容されることがいる。

 いっさい内部告発することはいらないのだったら、制度がもとから作られていないはずだ。内部告発して、知事を批判することがいることがあるから、制度が作られている。必要があることなのだから、許容されないとならない。知事への批判は必要がないことだったのだとはできづらい。知事と役人のどちらの主体についても、批判に開かれていることがいるのだから、批判が許容されることがいる。

 じかに知事が悪かったのだとはできづらい。じかのよし悪しは実質だ。実質はいきなりはわからないから、形式をふんで行く。内部告発の制度は形式の一つだ。形式をふんでいるのであれば、形式による支えをもつ。形式を抜きにしてじかに実質をとるのだと支えがないから弱い。形式によりつつ、実質をとるようにすれば、形式による支えがあるから、強さをもつ。じかにいきなり実質をとるとよし悪しがもう一つわからないから、法の決まりなどの形式を重んじるようにしたい。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治(いなざきこうじ) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房法哲学入門』長尾龍一 『考える技術』大前研一橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし)

消費税より、共産党:消費税の改善もよいけど、共産党はなおさら良い

 消費税をどうするかにおいて、いちばんかぎを握っているのは何なのだろうか。

 野党のれいわ新選組は、消費税を下げたりなくしたりするのを強く言う。消費税を改めることを強く打ち出している。

 あんがい、れいわ新選組がだいじであるよりも、むしろ日本共産党のほうがだいじである。

 れいわ新選組のほうが、共産党よりもより消費税を改めるのを強く打ち出しているけど、そうであるからといってれいわをとり上げるのがよいとは必ずしもできづらい。

 なんでれいわよりも共産党の方をとり上げたほうが良いのかといえば、その方がわかりやすいからである。

 どちらがより強く消費税を改めることを打ち出しているのかといえば、共産党よりもれいわだ。れいわのほうがより消費税を改めることを強く言っているから、れいわをとり上げるべきだとなりがちだけど、そうしてしまうと、れいわだけがよいのだとなってしまう。ほかの野党との共闘がないがしろになってしまう。

 野党の共闘よりも、消費税を改めることのほうがより大事だとされるのがあるけど、その逆もなりたつ。あんがい、消費税を改めることよりも、野党の共闘のほうがむしろ重みをもつ。消費税を改めるようにするのであれば、野党の共闘を重んじることがのぞましい。

 すごくよいことを言ったりやったりしているのがれいわであり、そのれいわを冷たくあつかうのは良くないことだ。れいわに冷たく当たるのは良くないことかもしれないけど、何を温かくあつかうことがいるのかでは、共産党を温かくあつかいたい。共産党に冷たく当たらないようにして行く。

 日本の政治の中でもっとも冷たくあつかわれているものの一つなのが共産党だ。共産党は冷たいあつかいを受けているけど、その共産党にたいして温かいあつかいをすることができれば、消費税を改めることにも役だつ。れいわほどではないけど、共産党も少しは(それなりには)消費税を改めることを打ち出している。

 人ではなくて物みたいなものなのが消費税だから、消費税が冷たくあつかわれているわけではない。物というか制度の一つなのが消費税だ。制度として見てみると、とてつもなく悪いものなのかどうかは定かではない。

 人の集まりなのが共産党だ。すごい良いことをいくつも言ったりやったりしているのが共産党だけど、それらがきちんと評価づけされていない。過少の評価を受けている。もっと評価されてもよいはずである。

 れいわだったら、共産党を重んじるよりは、消費税を重んじて行く。れいわのありようとしては、消費税よりも共産党を重んじることはないものだろう。自分たちの政党からしてみればほかの政党に当たるのが共産党なのだから、ほかの政党を重んじることはあまり気が進まない。

 けっこう多くの人たちが、消費税を改めるべきだとの声をあげている。れいわが言っているのと同じようなことを言っているのだ。それはそれで悪いとはいえないけど、れいわが言っているのとはちがって、消費税を改めるのではなくて共産党のあつかいを改めるのについてをもっと言って行くべきだ。

 多くの人たちが言っているのとはちがって、消費税を改めることではなくて、共産党のあつかいを改めることがたくさん言われたほうが良い。なぜなのかといえば、共産党のあつかいが改まれば、消費税を改めることにも益になるし、日本の政治が改まることが見こめる。

 冷たいあつかいから温かいあつかいに共産党のあつかいが変われば、野党の共闘がうながされて行く。野党の分断が改まりやすい。与党である自由民主党が、共産党に冷たいあつかいをしているのを、温かいあつかいに改めることができれば、日本の政治のありようがよくなって行く。

 何が何でも共産党にこだわらないとならないとは言い切れず、れいわでもよいのだけど、共産党をとり上げるようにしたほうが、疎外(そがい)をとり上げることがなりたつ。遠ざけられていることなのが疎外だ。共産党へのあつかいを改めることができれば、疎外を改めることにつながる。

 いまの日本では疎外がおきてしまっている。労働の疎外がおきていて、疎外された労働になっている。資本主義において商品の疎外がおきている。人の疎外が深まっている。日本の社会を少しでも良い方に改めて行くのは、疎外を改めることでもある。共産党をとり上げると、疎外が見えてきやすい.。日本の政治において疎外されているものの一つなのが共産党だからである。

 日本の政治ではこれまでに共産主義を公によしとしたことが無い。反共産主義の歴史が長い。遠ざけられつづけているのがあり、その歴史はけっこう古い。戦後よりも前にさかのぼれるのがあり、戦前は天皇制をよしとしていて、共産主義が悪いものだとされていた。共産党が排除されつづけているのを、包摂するようにして行く。包摂するようにすれば、消費税を改めることにも益になる。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『天皇論』鷲田小彌太 『十八歳からの格差論 日本に本当に必要なもの』井手英策(えいさく)

日本の家族の危機:選択の夫婦の別姓で家族は崩壊するのか

 選択の夫婦の別姓にすると、家族がこわれてしまう。家族が保てなくなる。

 日本の家族のあり方をこわすことになるのが、選択の夫婦の別姓なのだろうか。

 たしかに、結婚をしたさいにお互いの名字を同姓にしないで別姓にすることができるのであれば、女性が家族にしばりつけられづらくなる。しばりがゆるまる。

 かんたんに女性が家族から抜け出さないようにさせる。夫婦の同姓であれば、女性が家族にしばりつけられることになり、たやすく家族から抜け出しづらい。家族への参与(commitment)が高まる。

 夫婦が同姓であったほうが、家族がこわれづらいかのようだけど、むしろ、こわれづらいからこそ悪い。こわれやすいほうがむしろ良い。

 女性だけが家族にしばりつけられている。女性だけが、家族への参与を高くさせられている。女性に不利にはたらいているのがあって、女性をぎせいにして、家族が保たれているのである。

 たとえ家族が保たれていて、こわれていないのだとしても、女性をぎせいにしているのがあるのだから、正当性がたしかにあるとはできそうにない。正当性を問いかけてみると、たとえ家族がこわれることになるのだとしても、女性をぎせいにしないあり方に改めたほうがよい。

 二つのものをとり上げてみると、家族か女性かがある。その二つのどちらをとるのかがあるとすると、家族をとるのだと、女性がぎせいになってしまう。家族を保つようにするのだとしても、女性をぎせいにするのだと意味がない。家族か女性かだったら、家族をとるのではなくて、女性をとるようにして行く。

 西洋の哲学の弁証法(dialectic)で見てみると、家族をとことんまでぶっこわすものなのが、選択の夫婦の別姓なのだとはできそうにない。かりに、夫婦の同姓が家族を保つものなのだとすると、それが完全に捨てられているのではなくて、残った形になっているのが選択の夫婦の別姓だ。

 選択のしかたによっては、夫婦が同姓でいることもできるのだから、夫婦の同姓が完全に捨てられているのではない。夫婦の同姓も残っているのである。弁証法における止揚(しよう)は、捨てるのと共に残すのがあり、反対の矛盾した意味あいを一つの語の中に含む。

 こわしながら、建設もする。弁証法止揚をなすことができれば、たんにこわすだけではなくて、建設することにもなる。生産される。

 ただたんに家族をぶっこわすことになるのではなくて、建築や生産もされることになるのが、選択の夫婦の別姓だろう。弁証法止揚をなすことができれば、矛盾が片づく。完全なありようになる。問題を克服して行く。第三の道を創造することがなりたつ。

 そのままのありようだったら、夫婦の同姓のままであり、女性がぎせいになりつづけてしまう。家族への参与が高いままだ。女性だけ、家族への参与を高めさせられるのだとよくないから、参与を低める。そうすれば女性をぎせいにしづらくなって、楽になって行く。

 そのままのあり方である夫婦の同姓にたいして、対抗するものがおきてくる。夫婦の別姓だ。(そのままのありかたに対して)対抗するものが正しいとはかぎらないけど、それらの対立を、完全なものへと持って行く。止揚することができて、第三の道を創造することができれば、完全なあり方にできる。選択の夫婦の別姓は、(第一の道でもなく第二の道でもなくて)第三の道の創造だとできそうだ。

 参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし)

兵庫県の知事の問題と、役人の勇気:勇気をもっている人(ねずみ)の排除

 なんで、兵庫県の知事は、やめないのだろうか。いつまでも知事の地位にとどまりつづけているのだろうか。

 県の役人から内部告発されたのが、兵庫県の知事である。内部告発した役人にたいして圧力をかけたことで、二人の自殺者が出ている。

 いったん知事をやめる。それから出なおす。知事にはそれがいるのだと、田中真紀子氏はいう。政治家としての自分を正当化や合理化するのであれば、さっさと知事をやめて、それから出なおせばよいのだという。

 役人が知事にたいして内部告発をしたのは、ねこの首に、ねずみが鈴(bell)をかけることだ。内部告発をした役人は、勇気をもったねずみだったのである。

 何としてでも知事の地位にとどまりつづけたいのが兵庫県の知事である。勇気をもったねずみがいては困る。ねずみたちの中で、勇気をもったねずみがいると、ねこの首に鈴をかけられてしまう。

 どうして内部告発の制度があるのかといえば、いざとなったら、ねずみたちがねこの首に鈴をかけやすくするためだろう。そうとうな勇気がなければ、ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとはしづらい。

 何か負のことがあったさいに、ねずみたちに勇気を持ってもらう。勇気をもってもらって、ねこの首に鈴をかけに行くのをうながす。内部告発の制度は、そのためにある。やり直し(redo)の機会を増やす。民主主義によるものだ。

 少しでも矛盾を片づけやすくして行く。いつまでたっても、ねずみたちがねこの首に鈴をかけに行こうとしないのだと、矛盾が片づかない。矛盾がいつまでも片づかないのだとまずいから、できるだけ片づけやすいようにするためのものの一つが内部告発の制度である。

 たった一匹だけではなくて、何匹も勇気をもったねずみたちがいれば、臨界の質量(critical mass)にいたりやすい。勇気をもったねずみたちがたくさんいれば、臨界の質量にいたりやすくて、ねこの首に鈴をかけられる。

 県の役所の中には、勇気をもったねずみがいた。勇気をもった役人がいたのである。ほかに、役所の中や、外にも、勇気をもったねずみたちがいっぱいいれば、早くにねこの首に鈴をかけられただろう。

 いったい、兵庫県にはどれくらい勇気をもったねずみたちがいるのだろう。関西にはどれくらい勇気をもったねずみたちがいるのだろう。もっと広くは、日本にはどれだけの数の勇気をもったねずみたちがいるのかがある。

 あんまり数が多くなくて、少ない。日本には、勇気をもったねずみたちがすごい少ない。日本における世間とは、勇気をもたないねずみたちの集まりである。その中で、勇気をもったねずみがいると、浮いてしまう。あたかも勇気をもつことが悪いことであるかのようにされてしまうのである。

 兵庫県にかぎったことではないけど、日本において、報道のまずさがある。報道にたずさわる記者の中に、もっと勇気をもったねずみたちがいっぱいいれば、兵庫県においては知事を早くにやめさせられた。いつまでも兵庫県の知事が、知事の地位にとどまりつづけていて、ねばりつづけていられるのは、一つには報道のだらしなさがわざわいしている。

 参照文献 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『構築主義とは何か』上野千鶴子(ちづこ)編 『希望の国の少数異見 同調圧力に抗する方法論』森達也、今野哲男(企画協力、討議) 『いじめを考える』なだいなだ 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ)

資本主義のきびしさと生活の苦しさ:賃金の上昇にひそむ隠れた困難

 なんで、生活が苦しいのだろうか。生活が楽にならないのだろうか。

 たとえ物価高(inflation)がおきているのだとしても、それを上回る賃金の上昇がおきさえすれば、生活は苦しくない。楽になるのである。

 くせものでありやっかいなのは、たんなる賃金の上昇であるよりも、上回る、のところだ。物価高がおきているのがあるとして、それを上回るほどの賃金の上昇がおきないとならない。

 賃金を上げるのはどういうことかといえば、売り上げを上げることに言いかえられる。売り上げを上げるのは簡単なことではなくて大変だ。どの商売であったとしても、簡単に売り上げを上げられるのだったら、どこのお店もつぶれない。らくに継続企業(going concern)がなりたつ。

 学校に合格するのだったら、自分の実力にちょうど合っていて、入れそうな学校をえらぶのではなくて、上の学校に入ろうとする。売り上げを上げようとするのは、難関の東京大学京都大学を目ざすようなものであり、下の学校に入るよりもより難しい。

 そこまで入るのが難しくないのが、費用を減らすことだ。入るのがきびしいような学校ではなくて、もっと下の方の大学に入るのに等しい。売り上げを上げるよりかは、費用を減らすほうが易しいのである。

 これくらいの生活の水準を保っておきたいといった線があり、生活の水準をあまり下げられない。見栄があるから、あんまり生活の水準を下げることができないのがあり、費用を減らしづらい。あるていどの生活の水準を保とうとすると、費用がそれなりにかかってしまい、お金のよゆうがなくなってしまう。

 すごいむずかしい学校に入ろうとするのなら、勉強を怠けていては入れない。かなり勉強をやらないとならないのがあり、努力がいる。努力するのを費用だとできるとすると、かなり費用をかけないとならないのである。

 楽して、むずかしい学校に入ることができないように、楽して、売り上げを上げることはできづらい。売り上げを上げるためには、かなり費用がかかる。たとえ売り上げを上げることに成功したのだとしても、そのぶんだけうんと費用をかけているから、大変だ。楽なことではない。

 努力をせずに怠けていても、むずかしい学校に入れるのだったら、低費用で高利益(high return)だ。世の中には、そういった低費用で高利益のものは転がっていない。そういったものがあったらみんなが飛びついているはずだから、そんなうまい話はそうそう無い。

 どういうものが世の中にあるのかといえば、低費用で低利益(low return)のと、高費用で高利益のものだ。資本主義においては、こういったものぐらいしかないから、楽して利益があんまりないか、うんと苦労して利益を上げるかがあるくらいだろう。

 高費用で低利益なのだったら、大損である。骨折り損のくたびれもうけだ。なんで生活が苦しくて楽にならないのかといえば、売り上げを上げようとすると、費用もまた多くかかってしまう。売り上げを上げることそのものが、そもそも簡単ではなくてむずかしい。そうそううまい話は転がっていなくて、低費用で高利益をのぞみづらいのがある。資本主義はきびしさがある。新自由主義(neoliberalism)だと、人に冷たいところがあるから、つらさがある。

 かつてはそれなりに利益を得られた。費用をかければかけたぶんだけの利益を得られた。いまは費用をかけてもあまり利益を得づらい。うま味があまりない。いま、うま味があるのは、中国などだ。かつては日本にうま味があったけど、そのうま味がいまは中国などに行ってしまっている。

 いまの中国だったら、経済が盛り上がっていて右肩上がりだから、費用をかけたぶんだけ利益を得られるものだろう。かつての日本のありようが、いまの中国などでおきている。かつての日本には労働の付加価値があったけど、それが今はなくなっていて、中国などに行ってしまっている。

 いまの日本は、知の付加価値でやって行かないとならないけど、日本は知に弱い。知が強くないのがあり、知を大切にしていないのである。日本は、学問や教育(高等の教育)なんかを大事にしていなくておろそかにしているから、それがあだになっている。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『東大人気教授が教える 思考体力を鍛える』西成活裕(にしなりかつひろ) 『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』木暮太一(こぐれたいち) 『カルチュラル・スタディーズ 思考のフロンティア』吉見俊哉(よしみしゅんや) 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『考える技術』大前研一 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘