五輪の会場に観客を入れるべきかどうかと、テレビが持つかたより

 五輪の会場に観客がいてほしい。国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ氏はそう言っていた。

 コーツ氏がいうように、五輪の会場に観客を入れるべきなのだろうか。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、たとえウイルスの感染への危険性があったとしても観客を入れたほうがよいのだろうか。

 われわれ五輪の関係者も、五輪に出る選手も、観客がいるのを見たい。コーツ氏はそう言っていた。観客を見たいとコーツ氏はいうが、観客は(が)見るものであって、どちらかといえば見られるものではない。観客を見るとは、あらためてみると変なものである。観客が何かをやるわけではないから、観客を見るために五輪がひらかれるわけではないだろう。競技を見るのが観客なのであって、その逆に観客が見られたら話がちょっとだけおかしいのがある。

 いまは科学技術が進んでいるから、ほんとうの観客を入れるのではなくて、プロジェクション・マッピングかなんかで架空の観客を入れるのはどうだろうか。あたかも観客が入っているかのような画にしてテレビで映す。

 ほんとうの観客を入れるのでないと、入場券の売り上げが見こめないから、五輪の関係者の収入が減る。あらかじめ見こんでいた収入が得られないから、無理やりにでも観客を入れようとしているのだとされる。

 どうせテレビで映し出されるのはほんとうのなまの現実ではないのだから、いっそのこと科学技術で架空の観客をつくり出して、あたかも観客が入っているかのようにすれば、ウイルスに感染する危険性がおきなくてすむ。夏で暑いことからくる熱射病にかかる危険性も避けられる。

 加工して画をつくったうえで映像を映し出すのがテレビだ。加工することは避けられないのがあるから、あらかじめ視聴者につくったものであることをことわっておいて、ほんとうではないつくりものの観客を入れるようにするのはどうだろう。

 たとえ無理やりに観客を入れるようにするのだとしても、画うつりのためにそうするわけだから、人為に画がつくられていることになる。ほんものの観客を入れるのだとしても、人為に画をつくっているのはたしかだ。

 観客のことは置いておくとして、そのほかのいろいろなところでうそやごまかしやいんちきを行なっているのがテレビではある。やらせが多い。あまりやらせの意味を拡大させすぎるのはまずいが、もともとがなまの現実から多かれ少なかれ離れてしまっているのがある。

 あらかじめの送り手のねらいがあって、その枠の中に収まるようなものしか映さないのがテレビであり、枠の中に収まるような画づくりが行なわれる。枠の外にはみ出すものは映されることがない。枠の中の画づくりではいろいろな情報の操作が行なわれることになる。人為の枠の中に収めることになるので、その枠がもともともっているかたよりを避けづらい。枠がかたよりを持つことから、偏向したものが映し出されるのである。

 テレビの画の映りのためであるのや、あらかじめ見こんでおいた収入を得るために五輪に観客を入れようとしているのが五輪の関係者の思わくだ。観客を入れようとすることの意図はゆがんでいて汚れている。何のために五輪に観客を入れるのかについてが汚れているのがある。

 まったくもってすべてが汚れているとするのは言いすぎだろうが、すくなくとも二面あるとするとそのうちの一面は汚れているだろう。五輪には商業や政治が関わっているのがあるために、汚れが入りこむことを避けづらい。観客を入れるようにしたとしても、五輪の関係者の汚れた目的が達せられることになるだけで、客観としてそこに何の意味があるのかは定かではない。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利