五輪をデジタルとしてあつかうことと、アナログなとらえ方―アナログによって中間を見てみたい

 五輪でぐちぐちと言ったら完全に干す。五輪に反対の声をあげるのであれば干して冷遇するのだとしたのは、与党である自由民主党の政権のデジタル改革担当相だ。

 デジタル改革相は、五輪に反対することを、一か〇かや白か黒かのデジタルで割り切ってしまっている。一か〇かや白か黒かのあいだの中間を見ることによるアナログの発想が欠けている。

 アナログの発想がいちじるしく欠けているのがデジタル改革相だが、五輪に反対することで干されることがあってよいのだろうか。冷遇されることがあってよいのだろうか。そこに欠けているのはおもてなし(hospitality)のあり方だろう。

 平和の祭典だと言われているのが五輪なのだから、野蛮であってはよくない。五輪に反対の声をあげたからといってそれで干されるのであれば平和であるとは言いがたい。そこには反対者をむかえ入れることである客むかえが欠けてしまっている。

 五輪に反対することで干されることになるのは、排除されることをあらわす。五輪によって排除がおきることになるから、五輪が平和とは逆行するものであることを示す。いかに排除を生まないようにするのかが平和においては重要だ。

 五輪をよしとするものだけをむかえ入れるのであればそこにはほんとうの意味でのおもてなしがあるとは言えない。五輪をよしとするものだけではなくてよしとはしないものをむかえ入れることがあってはじめておもてなしができていることになる。味方や友ではなくて敵をむかえ入れることがないとほんとうの意味でのおもてなしにはならないのだ。

 たがいに同じあり方による協調があるだけであればそこには政治はない。対立することがないと政治はないから、五輪をよしとして協調することだけではなくてそれをよしとはしないことがあってもよいものだろう。

 五輪をよしとする協調だけではなくて、よしとはしないことで対立がおきれば政治がおきることになる。協調だけではなくて対立もあったほうがよいから、政治がおきたほうがよい。

 一か〇かや白か黒かのデジタルによって割り切れるとは言いづらく、そこには割り切りづらい再帰性(reflexivity)があるのが五輪だろう。デジタル改革相がやっているようにデジタルには割り切りづらく、アナログなところがあるのがいなめない。

 たった一つだけの正しい答えがあるのではなくて、それぞれにそれぞれの正しさがある。絶対になすべきものだといえるほどのものではないのが五輪だから、人それぞれでさまざまな声があってもよいのがある。

 かくあるべきの当為(sollen)であるよりはかくあるの実在(sein)を見ることがいる。実在を見てみれば、割り切ることができるデジタルであるよりは割り切れないアナログなあり方になっている。割り切れないアナログのところを切り捨てて捨象してしまっているのがデジタル改革相だ。

 五輪をやるべきかそれともやるべきではないかのどちらを選んだとしても、どちらも正しいことがありえるしまちがっていることがありえる。どちらかだけが正しくてどちらかだけがまちがっているのではないから、そこにはそれぞれの正しさがあり、それぞれにまちがいを含みえる。

 それぞれの人が自由にどのようであることがふさわしいのかを選べるのでないと政治によることができない。五輪が政治としてとり上げられるのがあってよいはずだ。五輪が政治としてとり上げられるためには、五輪をやることだけが正しいとはせずに、やらないことが正しいのもないとならない。どちらがふさわしいのかをそれぞれの人が自由に選べるようであることがいる。

 自由主義(liberalism)では政治の自由があることがいるから、そこが不自由になるのはまずい。政治の自由はさまざまなことについてそれぞれの人が自由に自分がよしとすることを選べるのでないとならない。五輪によって政治の自由がさまたげられることはよいことではない。五輪よりも政治の自由のほうがずっと大事なものだから、政治の自由のほうがより優先されるべきである。政治の自由をないがしろにしてまでも五輪をひらくことの値うちはないものだろう。

 参照文献 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『デジタル思考とアナログ思考』吉田夏彦 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也