五輪をひらくべきかどうかで、信念型と論争型―論争の欠如と表現の不自由

 東京都で五輪をひらくべきなのだろうか。五輪をひらくべきだとするのには、論争型と信念型があると見なせる。ひらくべきではないとするのにもそれらがある。

 信念として五輪をひらくべきではないとする人はあまりいないだろう。だからそれは置いておくとして、信念として五輪をひらくべきだとするのがある。そこには危なさがあることがいなめない。

 信念によるのではなくて、論争を行なうことをよしとする中で、五輪をひらくかどうかを見て行く。信念によるのではないかたちで、論争をよしとする中で五輪をひらくべきかどうかを見て行くのが日本の中では決定的に欠けていた。

 大手の報道機関の報道では、論争を行なうかたちで五輪をひらくべきではないとするのは言われない。それが言われないのは、日本の社会のなかで五輪をひらくべきではないと言うのが禁忌(taboo)になっていたからだろう。言ってはいけないことになっていたのだ。

 日本の社会のなかにはいろいろな触れてはならない禁忌があり、その中の最大のものが天皇制への批判だ。天皇制は日本の社会の中における最大で中心の禁忌だ。天皇制を批判するのが日本の社会の中で禁忌になっているのと同じように、五輪についてもまたひらくべきではないと言うことが言ってはならないことになっていた。それがいまにも引きつづいているのである。

 信念で言うのはあまりよいことではないことがあるが、論争のかたちであれば、五輪をひらかないほうがよいとすることが言われてもよかった。それが言われたほうが、論争が豊かになる。福沢諭吉が言ったように言論において自由の気風がとれるようになる。そこが欠けていたのがある。自由の気風がなくて、不自由さがあることがいなめない。

 論争すら行なわれずに、信念として五輪をひらくようにするべきだといったことで、これまで進んできたのがある。論争が十分に行なわれないなかで、信念として五輪をひらくことがおし進められてきた。論争が欠けていたために、いろいろな問題があることをとり落とす。問題を見つけることができない。問題をおもてに浮かび上がらせることができず、潜在化したままになった。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がらなければ、五輪が開かれる見こみはきわめて高かった。その見こみはきわめて高かったから、信念として五輪をおし進めたとしてもそれほどまずいことにはならなかったかもしれない。その点について確率から見てみられるとすると、確率としてはウイルスの感染が広まることはありえることだから、まったく確率がゼロだと計算することはできないものだろう。たとえ確率は小さいにしても、いくらかの生起確率を見こしておくことは計算としてできたことだろう。

 論争を避けることの弱みや欠点としては、信念が通じないようなことが現実におきたさいに、それに対応することができづらい。信念が補強されつづけることになり、それがうまく補正や修正されづらい。補正や修正するのは、論争をする中でできることだ。補正や修正をきかせるために、あえて論争をさかんにするようにして、いろいろな角度や視点からのいろいろな意見がたくさん言われたほうがよかった。

 大手の報道機関で五輪について前もって自由にいろいろな意見が言われたほうがよかったが、それがなかった。日本の報道の世界でとくにテレビなどの放送の世界はきわめて不自由なあり方になってしまっている。信念が補強されやすく、とちゅうで補正や修正されづらいあり方になっている。

 参照文献 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『問題解決力を鍛える 事例でわかる思考の手順とポイント』稲崎宏治