緊急事態条項が憲法にないから、ウイルスの感染の対策がうまく行かないのか

 ウイルスの感染が広がっている。それはピンチではあるが、そのことをチャンスとしよう。与党である自由民主党の議員はそう言っていた。

 憲法の改正をすることのチャンスとして、ウイルスの感染の広がりのピンチをとらえている。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染のピンチは、憲法の改正のチャンスだと言えるのだろうか。

 憲法を改正して、憲法に緊急事態条項をあたらしく加える。そのことがウイルスの感染に対応して行くさいのよりよいあり方につながるのだろうか。憲法に緊急事態条項がないことが、ウイルスの感染に政治が手を焼いていることのもとなのだろうか。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の因果関係からの議論によって、自民党の議員が言っていることを見てみたい。因果関係からの議論によって見てみると、憲法に不備があることが原因となって、ウイルスの感染の対応がうまくいっていない結果となっていることになる。そのさいに、ひとまずは原因と結果のそれぞれを切り離してみたい。

 まずは結果だけをとり上げて見てみられる。結果はすでに現実に出ているものだから、それそのものをとり上げることができる。結果だけを見てみたさいに、政権がウイルスの感染の対応に失敗していて、成功していない。そういう結果が現実に出ているのだと理解してみたい。

 すでに現実に出ている結果として、政権はウイルスの感染の対応に成功しなかった。いろいろな失敗がおきた。それがあるのであれば、そのことをまずはきちんと認めるべきである。何のせいで何がおきたといったような、原因と結果の図式に当てはめる前に、結果そのものがどうなのかを認めて行く。そのことがまずいる。

 結果にたいする原因を見て行く。そのさいに表面においておきた現象が、どのようないくつもの要因によっておきたのかを見て行く。たった一つだけの原因によって結果がおきるのではなくて、いくつものさまざまな要因によっておきることが多い。いくつもの要因があることが多いので、それを体系として分析することがいる。

 できるだけていねいにじっくりと時間をかけて、どれだけのさまざまな要因があって、それらによって結果となる表面の現象がおきたのかを見て行く。そこを見て行くことにできるだけ時間と労力をかけて行く。てっとり早く原因を一つに決めてしまうのではなくて、いろいろな要因をもれがないように見て行くようにしたい。

 てっとり早く原因を一つに決めてしまうと、それがほんとうは真の原因ではないのにもかかわらずまちがって取りちがえてしまうことがおきる。真の原因ではないのにもかかわらずまちがってとりちがえてしまうと、まちがった手を打ってしまう。ぜんぜん有効ではない手を打つことになってしまう。有効ではない手を打つのは意味がないことである。

 何のせいで何がおきたのかの、原因と結果の図式に当てはめようとするのであれば、そうとうにていねいにものごとを見て行かなければならない。原因と結果の因果関係は目には見えないものだから、取りちがえてしまうことが多い。何と何が相関していて、そこにほんとうに因果関係があるのかどうかをそうとうにていねいに見て行かないと、まちがったとらえかたをまねく。

 自民党の議員が言っていることを、修辞学の議論の型の因果関係からの議論によって見てみられるとすると、てっとり早く原因と結果の図式に当てはめてしまっているおそれが高い。結果にたいしていろいろな要因があることを体系として分析する手つづきをとっていない。

 結果にたいしてどのようなさまざまな要因があるのかを、もれがないように体系として分析する手つづきは欠かせないものであり、それを抜きにしているのであれば、ほんとうに結果にたいする真の原因となるものをとらえているとは見なしづらい。まちがったものを真の原因だととらえちがいをしているおそれが小さくない。因果関係では、原因と結果のとらえちがいがおきることが多い。

 何のせいで何がおきたのかの、原因と結果の図式に当てはめるのであれば、場合分けをして見てみるべきだろう。憲法に緊急事態条項があるかないかと、ウイルスの感染の対策の成功と失敗とを見て行く。

 場合分けをしてみたさいに、まず(憲法の改正をすることで)憲法に条項があって、対策に成功することがある。たとえ憲法に条項があったとしても、対策に成功するとはかぎらず、失敗することもありえる。憲法に条項さえあれば対策に成功するとは言えそうにない。条項が悪用されるおそれもある。憲法に条項がなくても、対策に成功することがありえる。憲法に条項がなくて、対策に失敗することがある。

 場合分けをしてみると、たとえ憲法に緊急事態条項があったとしても、それによってウイルスの感染の対策がうまく行く保証は必ずしもないだろう。条項が悪用されることもありえるから、国民の益になるようなことがなされるとはかぎらない。

 憲法に緊急事態条項がなかったとしても、ウイルスの感染の対策に必ず失敗するとは言えそうにない。たとえ憲法に条項がないのだとしても、やりようによってはウイルスの感染の対策に成功することはありえるだろう。憲法に条項がないことが、ウイルスの感染の対策に失敗することをまちがいなく約束することになるとは言えないものだろう。

 条項のありなしは、それほどウイルスの感染の対策の成否を左右するものだとは言えそうにない。そのわけとしては、ウイルスの感染の対策で、国民に少しでも益になるようなことをしたいのであれば、制約があるなかでも色々にできることはあるはずだからだ。制約がある中でできることを最大限にやることがまず大切なことだ。

 制約をとり外しさえすれば、つまり憲法に新しく緊急事態条項を加えて、権力への制約をなくしてしまえば、それで国民の益になるようなことがなされるのかは不確実だ。たんに制約がなくなっただけに終わり、権力の自由度が上がるだけに終わり、それによって国民の不自由さが増す。権力の自由度が上がることは、国民の自由度が上がることを意味しない。

 たとえ権力にたいする制約がなくなったとしても、そのことが国民の益になることにつながる保証はまったくない。権力にたいする制約は、国民にたいする制約とはちがうから、そこは区別されることがいる。国民に益になるように、権力にたいしてできるだけ制約をかけているのである。権力は(制約をむやみにとり外すのではなくて)あくまでも制約がかかっている中でできることを最大限にやらなければならないのが基本だ。

 与党である自民党の政権は、ふつうのときの政治においてすでにかなりの制約をとり外してしまっている。とにかく権力への制約をとり外そうとする動きが強い。権力への制約をとり外すことが自己目的化している。自民党がやみくもに憲法の改正を目ざしているのはそれによっている。

 制約がある中でできることを最大限にやることが行なわれていなくて、できていないことがとても多い。それがあるのだとすれば、たとえ制約をとり外したところで、国民に益になるようなことがとつぜんに政治において行なわれる見こみはそう高くはない。国民に益になるようなことをやりたいのであれば、制約がある中でもそれをできるだけ最大限にやることはできるはずである。

 もともと権力への制約はそれほど強くかかっているとは言えず、日本の政治では抑制と均衡(checks and balances)がとても弱い。やぶろうと思えば政治の権力は法の決まりをやぶってしまえる。法の決まりをやぶっても政治の権力は開き直っていられる。二重基準(double standard)になっているから、もともと権力への制約はかなり弱くなっているはずであり、これ以上に制約を弱めてしまうとさらに政治が悪くなることになりかねない。

 いったい何のために政治の権力への制約を弱めて、憲法に緊急事態条項を新しく加えることがいるのかを、いま一度あらためて見てみたい。いま一度それを見てみられるとすると、これ以上ないくらいに権力への制約が弱まってしまっているのがある。一つにはそう見られるのがあり、これ以上に権力への制約を弱めても、それがいったい何につながるのかが必ずしも明らかではない。

 たとえ政治の権力が法の決まりをやぶっても、憲法の決まりをやぶっても、それで許されてしまっていて、権力への制約がかなり弱まっていて、政治の権力がやりたい放題になっている。したい放題になっている。野放しになっている。日本の政治のあり方はそうなっているのだとすると、むしろ日ごろから制約をしっかりと強くかけて行くことがいる。そのほうが国民の益につながるかもしれない。日ごろから権力に制約がしっかりとかかっていないことの方にまずさのもとがあるのだと見なしたい。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)