日本の国がオールジャパンになれば五輪は開けるのか―国の全体は非真実である

 日本の国の全体が一丸になってオールジャパンでやれば、五輪を開ける。与党である自由民主党安倍晋三前首相はそう言っている。

 安倍前首相によれば、ウイルスの感染が広がっていて東京都で五輪を開くことが難しくなっているなかでも国民が一丸になれば五輪を開けるのだという。

 新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているなかで、安倍前首相がいうように、国民が一丸になれば五輪を開くことはできるのだろうか。

 そもそもの話として見てみると、ウイルスの感染が広がっているなかで五輪を開くべきだとは言い切れそうにない。だれがどう見ても五輪を開くべきだとは言えないので、国民のすべてが同じ価値観による大前提を共有することはできそうにない。

 五輪を開くことによって大きな利益を受ける人と、利益をそれほど得られない人とのちがいがある。五輪を開くことへの利害関心が強い人もいれば、それが薄い人もいる。安倍前首相は五輪を開くことへの利害関心が強い。それは五輪を開くことから安倍前首相が受けられる個人としての利益が高いからだ。それをすべての国民に当てはめることはできない。

 オールジャパンによることがいると安倍前首相はいう。そのさいのオールジャパンとはいったい何なのかといえば、いまのところは一億人くらいいる日本の国民のことだろう。いまのところは一億人くらいいるけど、これからどんどん人口が減って行く。さしあたってはいまの時点では量としては一億人くらいはいるのがオールジャパンだろう。

 集団の中にいる人の量が一億人くらいいると、そもそもオールジャパンはなりたちづらい。みんなが同じ一つの方向を向きづらい。全体は非真実であるのだと言われるのがある。オールジャパンによって、日本の国の全体が一丸になるのは、それそのものが幻想によるものだろう。現実論としては日本の全体が一丸になることはほとんどありえそうにない仮定である。

 ことわざでは十人十色(It takes all sorts to make a world.)と言われている。さまざまな人によるさまざまな遠近法(perspective)によって社会はなりたつ。たった一つだけの遠近法による枠組み(framework)によっているのではない。社会のなかには矛盾があり、人それぞれによっていろいろなちがいがある。

 理想論は置いておいて、現実論としてできるだけ地に足がついた形で見てみられるとすると、日本の全体が一丸となって五輪を開くべきだとするかくあるべきの当為(sollen)によってやって行くことはできづらい。かりにそれでやって行くのだとしても、かくあるべきの当為によって日本の全体が一丸になって同じ一つの方向に向かってつっ走っていったさいに、かなり効率は高くはなるものの、正しい方向に向かって進んで行くことの保証はない。効率性は高いが適正さに欠ける。

 かくあるべきの当為とはちがって、かくある実在(sein)のところを見てみると、かくある日本の社会のなかには、さまざまな人たちがいて、さまざまな見なしかたをもつ。かくあるべきの当為ではなくて、かくある実在のところを見てみれば、日本の国の全体が一丸になってものごとをなすことはできづらい。

 日本の国の全体が一丸にならないことが悪くはたらくことはないではないけど、国の全体が一丸になることによって悪くはたらくこともある。状況によっては、国民の全体が一丸になってやったほうがよいこともあるだろうが、それによって逆に全体が破滅に向かってつき進んでいってしまうこともある。

 状況しだいによっては、オールジャパンによって国の全体が一丸になることは悪くはたらく。国の全体が一丸になることに、必ずしもよい含意をもたせることはできない。みんながいっしょなのではなくて、みんながばらばらであったほうがよいことはしばしばある。現実論として見てみれば、みんながいっしょなのではなくて、みんながばらばらにならざるをえないのもある。かくある実在の社会には矛盾がおきざるをえない。

 日本の全体が一丸になるようなオールジャパンにさせるために、五輪を開こうとする。どちらかといったらそう言うのがふさわしいのがある。日本の全体が一つにまとまる幻想を持たせるために、五輪を開こうとしているのだ。五輪のもよおしは、あたかも日本が一つにまとまっているかのようないつわりの幻想をもたせるために利用されている。

 日本の国が一つにまとまっているとするいつわりの幻想を批判することが、五輪を開くことを批判することになるかもしれない。批判がなくて、日本の国が一つにまとまっていて、五輪を開くのがよいとしているのは単眼だ。単純さによる。複雑性をとり落とす。批判がないのではなくて、批判があるようにして、批判の声を自由にあげられるようにして、それが受けとめられるようにしたほうが複眼にできる。複眼のほうが複雑性をとり落としづらい。

 何が何でもどうあっても五輪を開かなければならないとすることは、その必要性がねつ造されているうたがいが高い。日本の全体が一丸になる必要はないし、何が何でも五輪を開く必要もない。東京都で五輪を開く必要がはじめから(もとから)無いほうがよほどよかった。そう見なしてみたい。

 参照文献 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『事典 哲学の木』 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)