憲法の改正の議論をすることと、義務と許可のちがい―義務であることと、許可されていること

 憲法の改正の議論をしろ。集会の中で、与党である自由民主党安倍晋三前首相はそう言っていた。野党の第一党である立憲民主党枝野幸男代表が、憲法の改正の議論を十分にしていないことをとがめていた。

 安倍前首相がいうように、枝野代表は憲法の改正の議論をやらなければならないのだろうか。それについては、義務と許可の二つに分けて見ることがなりたつ。さらに義務についてを具体の義務(完全義務や消極の義務)と努力義務(不完全義務や積極の義務)に分けることがなりたつ。

 憲法の改正の議論は、それをやらなければならないものとは言い切れない。そう見なすことがなりたつ。何が何でもやらなければならないことであれば義務に当たるが、やってもやらなくてもよいものなのであれば許可だ。

 やってはならないのではなくて、やってもよいけど、何が何でもやらなければならないと言えるほどではない。それが許可である。安倍前首相は、憲法の改正やその議論についてを、義務として見てしまっている。そこにおかしさがある。義務と言えるのは、政治家や役人が憲法を守らなければならないことだ。

 政治家や役人が憲法を守ることは義務と言えるが、憲法を改正することやその議論をすることは義務に当たるのだとは言えそうにない。憲法の改正やその議論は許可に当たるものだろう。安倍前首相は、憲法についてを、義務と許可をはきちがえてとらえている。憲法について、なにが義務に当たり、なにが許可に当たるのかが、安倍前首相の中でおかしくなっているのだ。

 かりに憲法の改正やその議論が義務にあたるのだとしても、義務は具体の義務と努力義務に分けられる。やらなければ駄目なことが具体の義務であり、憲法の改正やその議論がそれに当たるとは見なしづらい。せいぜいが努力義務に当たるくらいのものだろう。

 具体の義務は、他者に危害を加えてはならないものだ。憲法を守らなければ他者に危害が加わることになりやすい。政治家や役人は、権力を持っているために、国民に暴力を振るうおそれがある。国民に危害を加えるおそれがあるので、政治家や役人が憲法を守ることはきびしく見れば具体の義務に当たることだ。政治家や役人が憲法を守らなければ、国民に暴力が振るわれるおそれが高まるからだ。憲法を守らないことが許可されているのではない。

 憲法について義務と許可をとらえちがいをしていてねじれているのが安倍前首相だ。とらえちがいやねじれがおきていることにむとんちゃくになっている。それは安倍前首相の個人だけに言えることでは必ずしもないかもしれない。日本の国のあり方がねじれてしまっていることが反映されている。そう見られるのがあるかもしれない。

 ねじれているのを放ったらかしたままにしておくのではなくて、いろいろな思いこみの観念が入りこんでしまっているのを一つひとつていねいにほどいて行く。科学のゆとりをもつようにして、思いこみの観念が入りこんだままにつき進んでいってしまわないようにする。

 科学のゆとりを持たないで、思いこみの観念が入りこんだままで憲法の改正につっ走っていってしまうと、表面のあり方のままになってしまう。表面の奥にある核心や本質にまでいたりづらい。

 日本の政治では、表面のあり方でつっ走っていってしまうことが多い。表面の奥にある核心や本質までじっくりと時間をかけて見て行こうとすることが少ない。憲法の改正においてもそれがおきている。

 ねじれがおきてしまっているのが日本の国だから、そのねじれをほどいて行くのにはそうとうな労力がかかる。憲法の改正やその議論でも、ねじれが関わってきてしまうから、ねじれがあるままで表面のあり方でつっ走っていってもあまりうまく行きそうにない。ねじれがあるのをそのままにしておかないで、できるだけ根本(radical)からこれまでの日本の国の歩みをじっくりとていねいに時間をかけてふり返って行くようにしてみたい。

 せっかく憲法の改正やその議論をしようとするのであれば、日本の国がかかえているねじれをくみ入れるようにして行く。せっかく憲法の改正やその議論をしようとするのなら、日本の政治でしばしば見られるような表面のあり方でやるのではないようにしたい。表面の奥にある核心や本質を抜きにするようではないようにしたい。

 たんに立憲民主党の枝野代表が、憲法の改正の議論を十分にできていないのだとは言えそうにない。安倍前首相が憲法の改正において言っていることをやや抽象化して見てみられるとすると、憲法の改正の議論についてを、議論の一般としてとらえることがなりたつ。議論の一般は、政治そのものだと言えるとすると、日本の政治では、政治ができていない。政治において議論ができていない。

 憲法の改正の議論にかぎらず、日本の政治では、議論の一般ができていないことがはなはだしく多いだろう。議論ができていないことが多いのは、政治ができていないことだとも言えるから、政治をやれていないのである。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 日本の政治においては、まずは政治をやれるようにするべきであり、議論の一般をできるようにするべきだ。それができてはじめて、憲法の改正の議論ができる出発の地点に立てる。いまのところその出発の地点にすら立てていない。まずは、出発の地点に立てるようにするためにはどのようにすればよいのかを探るのが、ものごとのふさわしい順番だろう。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章、道田泰司他訳 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『ねじれの国、日本』堀井憲一郎 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代倫理学入門』加藤尚武 『論理的に考えること』山下正男 『まっとう勝負!』橋下徹