ウイルスの感染に対応することにかいま見られる、日本の政治の無責任の体制

 ウイルスの感染にかかわる国の大臣が何人もいる。厚生労働大臣がいて、新型コロナ対策担当大臣がいて、ワクチン担当大臣がいる。こんなに何人もウイルスの感染にかかわる大臣がいることは、いったい何を意味しているのだろうか。それは日本の政治の無責任の体制があらわれ出ているのだと見られる。責任の所在をあいまいにしているのである。

 何人も大臣がいて、まとまりに欠ける。それぞれがばらばらになっているふしがある。ことわざでいう船頭多くして船山にのぼるだとツイッターのツイートでは言われていた。英語のことわざでは、料理人が多すぎるとスープをだめにする(Too many cooks spoil the broth.)と言われるのがある。だれが上(leader)に当たるのかがわからないのがあり、みんなの仕事はだれの仕事でもない(Everybody's business is nobody's business.)になっているのもある。

 ウイルスの感染が増えている大阪府では、府知事が国に緊急事態宣言を出すことを求めるという。国は府知事の求めを受けて、宣言を出すかどうかを決める。このあり方は改めて見るとおかしいものに映る。しろうととしてはそのように見なせるのがある。

 なぜ都道府県の知事が国に宣言を出すことを求めるのだろうか。わざわざ知事が国に宣言を求めるのではなくて、国が宣言を出すかどうかをじかに決めるべきだろう。知事からの求めがあって、その求めを受けて国が宣言を出すかどうかを決めるのは、国が責任を回避したいからだろう。国が自分たちで責任を負おうとしていない。無責任の体制なのがあらわれ出ている。

 大阪府や東京都などの都道府県のあり方を国は見ているはずだから、認知はしているはずだ。認知しているのであれば、よいとか悪いとかいったことを評価できるはずである。評価できるのがあることから、どういうことをせよ(またはするな)といったことを指令できるはずだ。国が主体として認知と評価と指令をできるはずだけど、それを避けていて、国が責任を負うことから逃げている。

 国のあり方は、総合で俯瞰(ふかん)によるのか、それとも断片で分析によるのかがはっきりとしていない。しばしば政権は総合で俯瞰の点からものごとを決めるといったことを言っているが、すべての国民に益になるようなことをつねに的確にできているとは言いがたい。

 総合で俯瞰の点から政権がものごとをなすのだとはいっても、じっさいにはかなり限定的なあり方になっているし、まちがったことを言ったりやったりしていることは少なくないだろう。そうかといって、ものごとを切り分けてその一つひとつをしっかりと分析してそれにもとづいて発言や行動することができているのかといえばそれができていない。できもしないのに総合化しようとしているのである。与党とはいっても、政党(political party)はあくまでも部分(part)の代表にすぎないのがあり、総合や俯瞰の点には立ちづらい。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)