中国の内政に干渉することは悪いことなのか

 内政について干渉するな。中国の政治を外から批判することについて、中国はそのように言っている。

 中国が言うように、中国の内政に干渉することはいけないことなのだろうか。その点について、含意と文化相対主義(cultural relativism)によって見てみたい。

 中国で政治が行なわれているからといって、その内政がまちがいなく善政であるとは言い切れそうにない。悪政が行なわれているおそれを否定することはできづらい。

 たしかに、中国が言うように、内政に干渉することはよくないのがあるのにしても、その干渉がよくないことかそれともよいことかは、状況しだいである。状況によっては内政に干渉することはよいことがある。状況のちがいをくみ入れないで、いついかなるさいにも外から内の政治に干渉するのが悪いことを含意するとは言えないものだろう。

 とんでもない悪政が内政として行なわれているのであれば、その内政に干渉することはよいことだろう。そのさいには、むしろ内政に干渉しないことのほうが悪いとも言える。内政に干渉しないからといってそれがよいことなのだとは言い切れそうにない。

 文化相対主義では、どのような文化であったとしてもそれぞれがそれぞれによいものだとされて、いろいろな文化のあり方が認められる。そのさいにそれが悪くはたらくことがある。いろいろな文化のあり方があってよいのだとはいっても、そのようにいろいろなものをよしとしてしまうと、とんでもなく悪いものもよしとしてしまうことがおきてくる。

 文化についての相対主義を政治におきかえてみると、どのような政治であったとしてもよいのだとするのはまずい。ある国のなかで内政が行なわれているのであれば、それをもってして無条件でよしとしてしまうわけには行きづらい。それだと文化相対主義と同じようなまずさがおきてくる。

 外から見てまずいものが、内からはよいとはなりづらい。外から見たものが、内から見たらその実質ががらっと変わるのではないから、内における実質が絶対化されるのではない。

 内において行なわれる政治である内政は、それが実質としてまちがいなくよいものだとしたて上げたり基礎づけたりはできないものである。内政とは、ただたんに内において政治が行なわれることを意味するものにすぎないから、それが認められることがいるのだとはいっても、よいことが行なわれる保証にはならないものである。

 どのような文化であったとしても、文化でありさえすればそれはよいものだとは言い切れないのと同じように、内政においても、国の内で政治が行なわれていさえすればそれがよいものだとは言えそうにない。なかには悪い文化があるのと同じように、なかには悪い内政があるのだから、それは内または外から批判されるべきである。

 状況によっては内政で悪いことが行なわれることがあり、内政への干渉がよくはたらくことがある。内政に干渉しないことが悪くはたらくことがある。内と外とのあいだに絶対の確固とした線引きを引くことはできづらい。内と外との断絶ではなくて、内と外との相互性や相互の流通や交通が大切になってくる。内と外とが断絶するのは交通では反交通だが、そうではなくて互いにやり取りをし合う双交通がのぞましい。純粋な内のまとまりはありえず、その純粋さは幻想のものにとどまる。

 内と外とが断絶する反交通だと、集団主義が強まってしまい、集団の中のしばりが強まるおそれがある。反交通にならないようにして、集団主義による集団の中のしばりを弱める。内と外とが双交通になって互いにやり取りをし合うようにして行く。集団としての国が絶対化されないために、内集団と外集団が互いに双交通によってやり取りをし合い、内集団の中のしばりが和らいだほうが、内集団の中の個人が自由に生きて行きやすくなることが見こめる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『一冊でわかる 政治哲学 a very short introduction』デイヴィッド・ミラー 山岡龍一、森達也訳 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『「日本人」という、うそ 武士道精神は日本を復活させるか』山岸俊男