処理水の海洋への放出が正しいことなのかどうかと、それについての説明の能力

 飲んでも安全な水だ。だから海洋に放出してもまずいことはない。放射性物質トリチウムなどが含まれる処理水について、与党である自由民主党麻生太郎財務相は講演会のなかでそうしたことを言ったという。

 麻生財務相が言っているように、飲んでも大丈夫なほどのものなのだから、処理水を海洋に放出してもかまわないのだろうか。そこにまったく何らまずいところはないのだろうか。

 麻生財務相が言っていることは、まったく事実に反するとは言い切れないかもしれないが、事実そのものだとも言い切れそうにない。麻生財務相の言っていることは行為遂行(performative)の発言に当たるものだと言える。事実確認(constative)の発言だとは言えそうにない。

 なぜ事実確認ではなくて行為遂行の発言だと言えるのかといえば、じっさいに麻生財務相が処理水を飲んでみて、それが飲めるほどに安全なものであることを証明していないからである。言った本人である麻生財務相が処理水を日常において常飲していて、安全性を証明してくれるのでないとならない。そうでないと、飲めるほどに安全だと言いつつ、じっさいには飲まないと言ったことになる。安全であるとは言い切れないから飲まないのである。

 処理水を海洋に放出することにおいて問われるのは信頼だと言えそうだ。日本の政治に信頼があるかどうかが問われる。そのさいに信頼を得るためにいることは言葉政治だ。それなり以上の高度な言葉政治が求められる。説明責任(accountability)を果たすことだ。

 あまりにも軽々しいことを言ったのが麻生財務相なのがある。言っている言葉が軽い。言葉に重みがない。きびしく見られるとすればそう言えるのがある。そこに見られるのは言葉政治の力の欠如だろう。その力が欠けているのできびしく見れば失言の形になったと言える。

 日本の政治がほかの国から信頼されていないのであれば、それは日本の政治にまずさがあるのだと言える。ほかの国のせいにするのではなくて、日本の政治にまずさがあることを見るようにしてみたい。

 日本の国の中では内向きのいいかげんなことでも通じるのがあるが、日本の国の外にはそれは通じづらい。日本の政治に言葉政治の力が無いことがあらわになる。日本の国の中であればそれをごまかしやすいが、国の外ではごまかしづらい。

 客観の情報を発信する力の無さがあり、日本の国の中ではその力の無さをごまかしやすい。国の外ではごまかしづらい。国の中に向けても国の外に向けても客観の情報を発信する力が弱いのが日本の政治にはある。きびしく見ればそう言えるのがあり、信頼を得ることができていない。そのもとにあるのは、与党である自民党が言葉をないがしろにしていて、日本語を壊しているからだろう。政治においてもっとも大事なものの一つに当たるのが言葉の使い方であり、そこが与党である自民党はとりわけずさんなのがあるから、できるだけ改めるようにしてもらいたい。

 参照文献 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和