佐川急便が中国製の電気自動車を導入するそうだ

 佐川急便が、中国製の電気自動車の導入を決めたという。二〇三〇年までに約七二〇〇台のすべての配送の軽自動車を電気自動車に切り替えるという。

 中国でつくられた電気自動車を佐川急便がとり入れることを決めたことから、もう佐川急便はこれから先は使わないといったことが、ツイッターのツイートでは言われていた。

 佐川急便が中国でつくられた電気自動車をとり入れることを決めたことは、よくないことだったのだろうか。これから先はもう佐川急便は使わないと言われるほどに悪いことだったのだろうか。

 中国でつくられた電気自動車を日本で使うようにすることが、中国の国を利することになり、それが日本の国に悪くはたらくのかどうかは定かとは言えそうにない。

 まずひとつには、中国の国はあまりにも大きい。巨大な国なのが中国だ。そこでつくられた電気自動車だからといって、それを日本で使うようにすることが悪いとはいちがいには言い切れないだろう。

 どこかひとつの企業に悪いところがあるといったことであればまだわからないではない。たとえば具体としては日本の有名な化粧品の会社は、会長が差別や憎悪表現(hate speech)を行なっているのがある。政治の公正(political correctness)からして会長がよくないことを言っている化粧品の会社は悪いということは言えるだろう。

 ひとつの企業ではなくて、さまざまな企業をかかえる国である中国は、何々である(is)に当たる。何々であるから何々であるべき(ought)を導けるかといえば、それは誤りになるのがある。自然主義の誤びゅうだ。

 どこであったとしても自動車は製品としてはそれなりにつくれるのがある。自動車の製品をつくるには、それをつくるのにいる生産手段があればよい。

 生産手段とは、そのものを形づくるための材料や技術などだ。それがあればそのものをつくれるといった必要となる条件だ。飲みもののコーヒーを生産するのであれば、生産手段としてはコーヒー豆と水とコーヒーミルクと砂糖とコーヒーメーカーの機械とやかんと電気などがあればよい。

 生産手段がありさえすれば、機能としてそれなりによい自動車の製品はつくれるものだから、どこの国でつくられたものなのかはあまり重大な意味あいはもたないものだろう。ものは英語では goods と言われるのがあり、もとから良いものの含意をもつ。はじめから悪いものをつくってやろうといったことは基本としてはあまりないものだろう。

 ものとしての機能や品質の点では、中国でつくられたものだからといってそれが悪いとは言い切れそうにない。それなりによい機能や品質があるのであれば、中国でつくられたものであったとしてもとり入れる。佐川急便はそうしたあり方によっているのかもしれない。そのあり方は経済の点からすると合理性があると言えるだろう。あくまでもものとして見たさいには、それなりによい機能や品質をもってさえいればそれでよいのがある。情をさしはさむものではなくて、もっと乾いた経済の合理性の動機づけ(incentive)によって動く。

 効率性と適正さの点からすると、まったくもって非の打ちどころがないほど適正な企業はまずないものだ。経済において利益をあげるには効率性を優先させざるをえない。叩けば何かしらのほこりが出てくるのがある。たとえ中国の企業であったとしても、または日本の企業であったとしても、完ぺきに適正な企業はありえづらい。さがせばどこかには悪いところがあるのにちがいない。とんでもなく悪いことをしているのならまずいが、多くはていどの問題である。ていどの問題なのは企業だけではなくて国にも言えることだ。一か〇かや白か黒かの二分法では割り切りづらいものである。

 日本の物流においては、そんなにゆうちょうでゆとりのあることを言ってはいられないのがあるだろうから、そうとうな企業の努力が行なわれていて、佐川急便もその例外ではないのがありそうだ。ウェブでの販売などによって、個人の家への宅配がかなり増えているのがあり、日本の物流は危機におちいっていると言われているのがある。佐川急便にたいしてきびしい目が向けられることとは別に、日本の物流の全体はこれから先においてもまちがいなく大丈夫だとは言い切れない。物流が崩壊したら大変だから、そこについての心配を完全に払しょくすることはできそうにない。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『物流大崩壊』角井(かくい)亮一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一