ミャンマーの軍事政権に見られる、政治における絶対論と相対論とのあいだの矛盾や分裂

 ミャンマーでは七〇〇人ほどの国民がこれまでに軍事政権によって殺されたという。そのなかで軍事政権がとっている行動についてどのようなことが言えるだろうか。

 軍事政権がとっている行動についてを絶対論と相対論の二つによって見てみられるとすると、その二つのあいだのずれや矛盾を軍事政権はかかえている。

 いうことを聞かずにさからう国民を殺している軍事政権の行動は絶対論によっている。国家の公を絶対化するものだ。国家の公を肥大化させて個人の私を押しつぶす。

 どれくらいの正しさが軍事政権にはあるのかといえば、それについては絶対論はなりたたない。不たしかで心もとない正しさによっているのが軍事政権であり、まちがいなくたしかな正当性をもっているとは言いがたい。相対論になっているのだと言わざるをえない。

 絶対論がなりたつのであればものごとを割り切れる。それがなりたたないのであれば絶対の合理性はなりたたない。相対論によることになり、ものごとをかんたんには割り切れない。相対の合理性によることになる。

 政治における相対主義の表現が民主主義なのだと法学者のハンス・ケルゼン氏は言う。政治においてまちがいなく正しいといったことで絶対論によるのではないようにして行く。まちがいなく正しいといった絶対論によってしまうと、相対論による民主主義を超え出てしまい、絶対化された教義(dogma、assumption)によることになる。

 ミャンマーの軍事政権は絶対論によっているが、そのことによってかえって絶対論がなりたたないことが示されているところがある。絶対論によって軍事政権が正しいことを完全に基礎づけたりしたて上げたりすることができない。一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れないのである。

 絶対論によることでかえって相対論のあり方が浮きぼりになっている。絶対論によるのだと科学のゆとりを欠く。科学のゆとりを欠くことによって、勝とうとするのがかえって負けにいたる。負けることがかえって勝つことにつながる。ことわざでは負けるが勝ち(stoop to conquer)と言われるが、何が何でも勝とうとすることでかえって勝つことから遠ざかってしまい、実質としては負けているのに等しくなる。

 純粋な正しさはなりたちづらい。純粋な正しさによるのだとするのは絶対論によるものだ。純粋な正しさによるのは、それによってまちがった方向に向かってつっ走って行ってしまう危なさをもつ。社会の中には人それぞれによってさまざまな思わくの遠近法(perspective)があることが切り捨てられてしまい、捨象されてしまう。じっさいの社会の中にはいろいろな人々によるさまざまな遠近法があり、それが実在の社会のありようである。

 かくあるべきの純粋な正しさによってしまうと、絶対論によることになり、社会のなかのいろいろな人々によるさまざまにある遠近法をとり落とす。ことわざでは十人十色(It takes all sorts to make a world.)と言われているのがある。社会をなすのには、いろいろな人々によるさまざまな遠近法がいるのがあり、その実在のかくあるあり方を切り捨てないようにしたい。かくあるべきを、かくあるよりも優先させてしまうと、まちがった方向に向かってつっ走って行ってしまうおそれが高まる。

 絶対論による完全な正しさによっているつもりが、かえって不完全さや不たしかさがあらわになる。絶対論と相対論とのあいだの分裂が引きおこる。時代の状況が相対論によっているのがあり、絶対論による大きな物語がもはやなりたちづらくなっているのである。ミャンマーの軍事政権による物語は絶対化されるのではなくて相対化されざるをえない。

 スマートフォンなどの高度な文明の利器を個人が持てる。情報化が進んでいる時代の状況があるので、国の政治の権力が悪いことをやったらそれが広まりやすい。ことわざでは悪いことはすぐに広まりやすい(Bad news travels fast.)と言われる。スマートフォンなどの高度な文明の利器を個人が持てるのがあるから、できごとを記録化してほかのところに広めることができやすい。文明の利器の発達を無視することはできづらい。

 いくら絶対論によってまちがいのない正しさをとろうとしても、相対論とのあいだに矛盾が引きおこることになり、正と誤とのあいだの分類線が揺らぐ。正が誤に転じて、誤が正に転じるといったことがおきてくる。正と誤とのあいだにはっきりとした分類線を引きづらくなっているのが相対論によるあり方であり、それが浮きぼりになっている。

 あくまでも絶対論はなりたたず、相対論しかなりたちづらい。大きな物語はとれず、小さな物語しかとりづらいのをくみ入れるようにして行く。相対論によるようにしたほうが、民主主義によりやすくなり、絶対論と相対論とのあいだにおきる分裂や矛盾を小さくできる。

 いきなり全体の最適(global optimal)をなそうとするのではなくて、少しずつ部分の最適(local optimal)を行なうようにして行く。部分の最適のわなにはまることに気をつけるようにする。そこを気をつけることがおろそかになると、思いきり部分の最適のわなにはまりこんでしまう。ミャンマーの軍事政権は部分の最適のわなにはまりこんでいるうたがいが小さくない。

 参照文献 『相対化の時代』坂本義和 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで)