夏の東京五輪を行なうことと、さまざまな不確実性

 夏の東京五輪のための聖火リレーがはじまった。五輪にお金などを出しているコカ・コーラ社のはではでしい赤い車がリレーを先導していた。はたしてそれを聖と言えるのかと、ツイッターのツイートでは言われていた。

 聖火リレーは、聖であるよりも商と言えるかもしれない。コカ・コーラ社の宣伝車が先導しているのは商であり俗である。自社の商品を宣伝する思わくが明らさまだ。また、聖であるよりも政とも言える。五輪のもよおしによって日本の政権を浮揚させるねらいがあるからだ。

 走ることが予定されていたさまざまな芸能人が聖火リレーを辞退する動きがおきている。ほかの予定との調整が合わなくなったなどのさまざまな理由をあげて芸能人は聖火リレーで走ることを辞退することを決めている。辞退することのリレーがおきているのだ。

 聖火リレーで走ることの得や利益と損や害を計算してみて、損や害のほうが上回ると見なしたために、さまざまな芸能人が辞退することを決めたのかもしれない。そもそも、聖火リレーで芸能人が走ることは、そんなに高い動機づけによるものではないのがありそうだ。どうしてもといったほどのものではないし、何が何でもといったような理由がない。自発性によるのではなくて、他に頼まれたからといったことで、何となくといったようなものだろう。

 東京五輪のもよおしに見うけられることとして、どのようなことがあるだろうか。そこに見うけられることとして不確実性がある。

 不確実性があるのにもかかわらず、それを隠ぺいして、無いことにしてしまう。あたかも確実性があるかのようによそおう。日本の国ではそうしたことが行なわれやすい。そうとうに不確実性が高かったのにもかかわらず、それを隠ぺいして無いことにして、あたかも確実に日本の国が勝つかのように嘘をいい、戦争につっ走っていった。まちがいなく日本の国には神風が吹くのだとしていた。

 東京五輪聖火リレーは、東日本大震災の復興をしめすために、被災地が一つの出発の地点とされた。被災地には原子力発電所がある。原発は事故をおこしたのがあり、不確実性をかかえている。

 日本は地震国であり、いつ地震がやって来てもおかしくはない。天災は忘れたころにやってくると言われる。もしも東京五輪を開いている最中に大きな地震がおきたらどうするのかといったことが言われている。来日している五輪の関係者を災害に巻きこむことになる。原発が事故をおこすおそれがあるから、その心配もある。

 いまは社会の中に新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が広まっているのがあり、不確実性がおきている。確実に感染を減らすことができづらいために、先行きを見通しづらい。

 日本の夏はそうとうに気温が高くなるのがある。自然の環境が破壊されることによって地球が温暖化していて、むかしに比べて夏がより暑くなっている。その中で東京五輪をひらくのは適したことだとは言えそうにない。冷夏になればまだよいだろうが、もしもとんでもなく暑くなったらその中でスポーツをするのは人間らしい営みであるとは言いがたい。熱射病がおきて選手(や観客)が死ぬことがおきたら大変だ。

 自然の環境の破壊による地球の温暖化にはいろいろな説があり、むしろ逆に冷えて行くのだといった説もある。だから絶対にこうだといったような断定をすることは避けなければならないかもしれない。その中で一つの観察による見かたとしては、地球が温暖化していっているしるしとして、北極の氷は確実に溶けていっていて、全体の氷の量が少なくなっているのだと言われている。

 東京五輪とその前のもよおしである聖火リレーから見えてくることは、さまざまな不確実性を日本の社会が抱えているのにもかかわらず、それが隠ぺいされてしまい、無いことのようにされてしまっている。あたかも確実性があるかのようにされている。その確実性は虚偽のものとして構築(construction)されたものだが、それが崩れてきていて、さまざまな不確実性があらわになっているところがある。確実性による虚偽の構築によって見えなくなってしまうさまざまな不確実性を見るような脱構築(deconstruction)を行なうことがあったらよい。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『大地震は近づいているか』溝上恵 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし) 『北極大異変』エドワード・シュトルジック 園部哲(そのべさとし)訳