元首相がまた失言をしたようである

 集まりの中には、大変なおばちゃんがいる。女性と言うにしてはあまりにもお年である。与党である自由民主党に属していた森喜朗元首相は、集まりのあいさつの中でそう言ったのだという。

 集まりの中の高齢の女性にたいして、森元首相はなぜ報じられているような内容のことを言ったのだろうか。ここで言われている女性を男性と入れ替えてみたら、同じことがなりたつのだろうか。女性ではなりたっても、男性ではなりたちそうにない。男性と言うにしてはあまりにもお年だ、とはあまり言わないものだろう。

 森元首相が言ったことからうかがえるのは、国家の公の視点からものを言っているうたがいがあることである。国家の公のための道具や手段として女性をとらえているうたがいがある。そう見なすことがなりたつ。

 たとえ女性がどれくらい年をとろうとも、そのことについていちいち国家の公に口出しされるいわれはないものだろう。個人の私の視点からすればそう言うことがなりたつ。個人を道具や手段ではなくて、目的そのものとしてあつかうようにする人格主義(personalism)によるものである。

 人どうしが会話をしている中で、会話をしている人にじかに面と向かって、性別にからめる形で、ずいぶんお年なんですね、といったことを言うのは失礼に当たる。性別がどうかについてと、年がどうかについてを、からめる形で人にたいして言うのは礼を失するものだろう。ことわざでは、親しき仲にも礼儀ありと言われるのがあるから、たとえ親しいあいだがらなのだとしても礼を失してよいとはならないものだろう。

 人格主義によるようにして、個人の私を目的そのものとしてあつかうようにすることが、個人を尊重することだ。国家の公のために個人の私がいるのではないのだから、個人を尊重するようにして、基本の人権(fundamental human rights)を侵害しないようにしたい。

 国家の公の視点に立ってしまうと、国家のために人口を増やすことがいり、子どもを生むことができる女性には価値があるが、そうではない女性には価値がない、といった差別がおきかねない。森元首相が言ったことの中には、この国家の公の視点からの差別がかいま見られるところがある。

 高齢なために、いまから新しく考え方を変えるのは難しいのだから、森元首相が失言をしたことは大目に見るべきだ。そう言われるのがあるが、そのさいに、かりに森元首相の個人の失言のことはカッコに入れられるとして、それとは別に、日本の社会の中にあるよくない悪い価値観は改めて行くことがいるのだと見なしたい。

 日本の社会の中にあるさまざまなよくない悪い価値観がそのままになっていて、それが放ったらかしにされることによって、生きて行くことが苦になる個人の私が出てきてしまう。すべての個人の私が楽に生きて行けるようにするために、日本の社会の中にあるさまざまなよくない悪い価値観が少しでも改まり、偏見が少しでも減ることをのぞみたい。

 参照文献 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編