中国のウイグルのことと、声をあげることがもつ合理性の度合い

 中国のウイグルの人たちに人権の侵害が行なわれている。それについて声をあげることは、日本の国内でおきている人権の侵害に声をあげることよりもより優先されるべきことなのだろうか。

 何かよくないことが行なわれているさいに、それにたいして声をあげる。そのことについてを目的合理性と価値合理性の点から見てみられるとするとどういったことがいえるだろうか。

 日本の国内で人権の侵害が行なわれているさいに、そのことにたいして声をあげる。それはその具体で個別のよくないことにたいして声をあげることだ。その具体で個別のことを放ったらかしにしておいてはならないとすることから声をあげることになり、そこには目的合理性があることがわかる。目的を達するための手段になっている。何とかしてその具体で個別のことを改めて行きたい。そのために声をあげるのがあるから、理にかなっているところがある。

 声をあげることそのものがひとつの表現だと見なせるのがあるから、声をあげることそのものは目的合理性とはべつに価値合理性をもつ。声をあげることは表現することだから、表現することは表現した人を充足させることになる。表現をしたいとの欲求があって、その欲求が満たされるのだとすれば、欲求が実現したことをあらわす。欲求が実現すれば幸福につながるのがあるから、すべての個人に保障されるべき幸福追求権が行使されたと見なせるかもしれない。幸福においての欲求実現説(desire fulfillment theory)を当てはめたさいのものだ。

 たとえ中国のウイグルのことに声をあげないのだとしても、日本の国内のことについてだけに声をあげるのであったとしても、そこにはまったく何の合理性もないのだとは言えそうにない。まったく非合理なことだとは言えそうにない。少しの理もないことだとはいえず、それなり以上の理があることが少なくない。

 一か〇かや白か黒かの二分法によるのではなくて、ていどによって見てみられるとすると、何かにたいして声をあげることは、中間の灰色の領域に属することだと言えそうだ。まったくの白だとはいえず、かといってまったくの黒だとも言えそうにない。法の決まりに反していないかぎりにおいては、あるていどの合理性があることだと言えるものであり、それをうら返せば、合理性の限界があるのや、限定された合理性があることになる。完ぺきな合理性によるのではない。

 合理性の限界や限定された合理性の中において、たった一つだけの正しい声があるのではなくて、さまざまな声が人それぞれによってあげられる。それが現実のありようであるのだと言えるかもしれない。たった一つだけの正しい声に集約されるのではなくて、いくつもの声に分散されざるをえない。たった一つだけの正しい声に収れんされるのだとは言えそうにない。求心であるよりも遠心によるのがあり、さまざまな遠近法(perspective)がとられることになる。

 たった一つだけの正しい声があるのではない。人それぞれによってさまざまな遠近法がある中で、国家主義(nationalism)による国家の公が強まりすぎないようにして、個人の私が重んじられるようにして行く。国家の公が肥大化することによって個人の私が押しつぶされないようにして行く。自由民主主義(liberal democracy)が壊されないようにして、それが守られるようにして行きたい。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『幸福とは何か 思考実験で学ぶ倫理学入門』森村進 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫