中国のウイグルのことと、それに声をあげるべきなのかどうか―総論と各論から見てみたい

 中国のウイグルの人たちにたいする人権の侵害が行なわれている。日本の国内にある人権の侵害に声をあげるのであれば、中国のウイグルのことに声をあげなければならない。ツイッターのツイートではそう言われているが、そのようにすることがいるのだろうか。

 中国のウイグルのことに声をあげなければならないのかどうかについてを、総論と各論の点から見てみたい。総論と各論に分けて見てみたさいに、総論ではそこまでずれがないものだろう。右派であろうと左派であろうと、中国のウイグルのことをとり上げることはよいことだと見なしているのにちがいない。

 中国の国がウイグルの人たちにたいしてやっていることがよくないことである点については、うなずくことができることだろうから、総論としてずれがあるとは言えそうにない。中国のウイグルのことに声をあげることがよいことである点についても、総論としてずれがあるとは言えないものだろう。

 各論として見てみるとそこにはさまざまなずれがあることがうかがえる。中国のウイグルのことに声をあげるだけでよいのかどうかの点がある。声をあげるだけで十分なのかそれとも不十分なのか。声をあげないことはよくないことであり許容することができないことなのか。声をあげることは必須のことなのかそれとも任意のことなのか。

 たとえ中国のウイグルのことに声をあげるとしても、それだけで中国の国のふるまいが変わるとは言えそうにない。日本の国の中から声をあげたくらいでは中国の国のふるまいが変わることはのぞめないから、たとえ中国のウイグルのことに声をあげるのだとしても、それによってウイグルの人たちのあり方が劇的によくなることはのぞみづらい。

 ウイグルの人たちを助けるためには、日本の国が手をさしのべるようにして、日本の国に受け入れて行く。困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにして行く。各論としてそうしたことが言われているが、これは日本の国がウイグルの人たちにたいしてとることができる正義のひとつのあり方だろう。

 たとえ中国のウイグルのことに声をあげるべきだとする人であったとしても、困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにすることにはうなずけない人もいるだろう。それにうなずくことができないのは、総論としてはずれはないのだとしても、各論としてはずれがあることをあらわす。

 中国のウイグルのことについては、総論としてはあまりずれはない。中国の国がウイグルの人たちにたいしてやっていることについて、よくないことだとする点については総論としては合意できやすい。そのいっぽうで各論としてはずれがおきやすい。

 日本の国が中国のウイグルのことについてできることは何なのかや、やるべきことは何なのかがある。それらについてはどちらかといえば各論に当たることであり、その各論についてはさまざまなちがいがある。中国のウイグルのことに声をあげるのをよしとするのがあったり、困っているウイグルの人たちを日本の国が受け入れるようにするべきだとするのがあったりする。

 たとえ各論にちがいがあるのだとしても、総論としては合意ができやすいから、総論として意見が合いやすい点についてはそれを肯定のものとしてとらえることができるかもしれない。総論としても合意が得られないよりかはよいのだとできる。そう言えるのはあるものの、各論としてはずれがあって、いろいろな見なし方があるから、各論がばらばらになっていてはあまり意味がないのだとも言える。

 きびしく言えるのだとすれば、たとえ総論としては合意ができやすいのだとしても、各論がばらばらでまとまっていないのであれば、具体としてはものごとが進むことはのぞみづらい。それは中国のウイグルのことがやっかいな性質をもつことがらであることを示しているかもしれない。

 日本の国がやれることややるべきことをやっていないのがあるとすると、その怠慢があることを批判することができるだろう。日本の国内において日本の国が少数派にたいしてとってきたまちがいがあり、歴史における日本の国のあり方が批判されることがいる。歴史において日本の国がなしてきたまちがいをくみ入れられるとすると、日本の国のこれまでのまちがいを棚に上げることはできづらいから、それを棚に上げたままなのであれば、日本の国が言うことには説得性が欠けてしまうところがある。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)