愛知県知事をやめさせる正しい目的のためであれば不正な手段を用いてもよいのか―目的と手段の組みのふさわしさ

 愛知県知事をやめさせる運動の中で不正が行なわれたうたがいがおきている。アルバイトをやとって偽造した署名を書いていた。それが報じられている中で、よい目的のためであればよくない手段を用いることは許されることなのだろうか。それが許容されるのだろうか。その点についてを目的と手段の組みと、実質論と形式論によって見てみたい。

 たとえよい目的のためであったとしても、よくない手段を用いるのはよしとはしづらい。それをよしとはしづらいのは、現実においてはどういった手段をとることができるのかについて制約がかかっているのがある。その制約の中でとれる手段をとったほうが安全性は高い。制約の外に出てしまおうとすると法の決まりを破ることになるから、適していない手段をとることになる。

 愛知県知事をやめさせようとするのは、目的として客観で完ぺきによいことだとは言いがたい。目的として客観で完ぺきによいものだとはしたて上げたり基礎づけたりはできづらいから、できるだけ相対化しておきたい。目的を絶対化してしまうと、それが自己目的化してしまい、視野がせばまって狭窄することがおきかねない。

 もしかしたらそれほど正しくはないことを目的にしてしまっているおそれがあるから、それをくみ入れるようにして、目的をなすための手段についてはできるだけ現実の制約の中でとれるものをとるようにしたい。制約の外に出たとしてもとにかくなにがなんでも目的を達するのが正しいのだとなってくると、手段の自己目的化がおきてきかねない。目的と手段が転倒する。集団として不祥事がおきることのもとになる。

 実質論として愛知県知事をやめさせるのが正しいのかどうかは、だれがどう見てもまちがいなく正しいことかどうかは定かではない。独立して実質において愛知県知事をやめさせることが正しいかどうかは定かではないのがあるから、形式論において形式の手つづきを守るようにして行く。

 法の決まりを守るようにして、それを破らないようにしたほうが、形式論において形式の手つづきをふめているのをあらわすから、それをふむことができていたほうが実質を支えられる。形式の手つづきに抜かりがあって、法の決まりを破っているのであれば、形式のところに弱さがあることはいなめない。形式のところに弱さがあるのであれば、それによって実質を支えることができていないので、実質の正しさが心もとなくなってくる。

 いたずらに現実の制約の外に出ようとするのではなくて、制約の中においてとれる手段をとるようにして、それによって目的を達するようにして行く。そのほうがいっけんするともたもたしているようでいてじっさいにはかえって速いかもしれない。

 ことわざではいそがば回れ(haste makes waste)と言われるのがあるから、科学のゆとりをもつようにして、制約の中でとれる手段をとりながら、少しずつ歩みを進めて行く。てっとり早くやろうとすることによって、制約の外に出ようとすると、局所の最適化のわなにはまってしまい、理想といえる大局の最適から離れていってしまう。大局の最適から離れてしまうと、いったい何のために何をやっているのかがわからなくなってくる。

 目的と手段の組みのそれぞれについてをいまいちど改めて点検してみて、目的合理性があるのかどうかをそのつど立ち止まって見てみることがあれば、とんでもなく非合理なことをすることを少しは防ぎやすい。これこそがまさしく正しい目的なのだといった合理主義があまりにも行きすぎると教義(dogma、assumption)と化してしまうから、それを修正する機会があったらとちゅうで信念のゆがみを直しやすい。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しく考えるために』岩崎武雄 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣(きよのぶ)