不正義と(集団の)不祥事―不正義を正すことと不祥事がおきることと、集団のあり方のよし悪し

 アメリカの大統領の選挙での不正のうたがいがある。それと、その不正に反対する中でおきたアメリカの連邦議会の議事堂にデモの参加者が乱入した犯罪がある。この二つを比べてみられるとするとどういったことが言えるだろうか。この二つについてを不正義と(集団の)不祥事としてみたい。

 アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかは、それがまちがいなくあったのだとは言い切れないので可能性にとどまっている。そのいっぽうで、アメリカの連邦議会の議事堂にデモの参加者が乱入した犯罪はじっさいにおきたことなので事実だ。

 大統領選挙においては不正義があったうたがいがあるのにとどまっていてそれは可能性の話だ。そのいっぽうでアメリカの連邦議会の議事堂に乱入した犯罪はじっさいにおきたことだからその不祥事がおきたことは事実だ。そこから、可能性としての不正義と、事実としての不祥事だとできる。

 可能性と必然性の二つをいっしょくたにはしないで切り分けるようにしてみたい。この二つをごちゃ混ぜにしないで切り分けられるとすると、この二つはそれぞれで次元がちがう。受験生が受験を受けるとして、志望校に受かるかどうかは可能性の次元に属する。受かるかもしれないし受からないかもしれない。どちらでもありえるのでどちらもなりたつ。結果が合格か不合格かが発表されてそれを確かめに行ったあとは、受かったかそれとも落ちたかのいずれかのうちの一つであり、必然性の次元に属する。受かったかそれとも落ちたかのどちらか一つしかなりたたない。

 可能性としての不正義と事実としての不祥事がある中で、あとのほうの事実としての不祥事についてをとり上げてみたい。あとのほうについてをとり上げるさいに、なぜ事実としての不祥事がおきたのかを見てみられる。なぜ事実としての不祥事が現象としておきたのだろうか。その現象がおきたことの要因は一つだけではなくてさまざまにあるのにちがいない。そのうちで大きな要因としては、ドナルド・トランプ氏を支持する集団のもつ性格にあるのではないだろうか。

 集団のもつ性格において、その集団がもっているおきてがある。集団の中のおきてが、外の社会の法の決まりよりも重んじられてしまう。法の決まりよりも集団の中のおきてのほうがより重んじられると集団の不祥事がおきやすい。

 集団のあり方として不祥事がおきづらいのとおきやすいのとがあるという。集団が内に閉じていて、外に開かれていない。集団が求める利益を追い求めすぎる。集団に属している人が集団に強く参与(commit)しすぎている。集団のもつ自己同一性(identity)への同化の度合いが強い。集団の中に埋没してしまい、集団から離れた一人の個人としての主体的な判断をもちづらい。こうしたあり方になっていると不祥事がおきやすいところがあるという。

 事実としておきた不祥事であるアメリカの連邦議会への乱入の犯罪を重く見られるとすると、その責任の主たるところは集団の長に当たるトランプ氏にある。そう見られるのがあるかもしれない。集団の長としてトランプ氏が超越の他者となり、支持者の一部は超越の他者によって他律(heteronomy)として動かされる。

 ゲシュタルト心理学では図がら(figure)と地づら(ground)を反転させられるとされるのがある。それでいうと、トランプ氏とその支持者の一部が形づくる集団においては、アメリカの大統領の選挙で不正があったとすることが図がらに当たり、アメリカの連邦議会の議事堂に乱入した犯罪は地づらに当たるものだろう。それを反転させられるのがあり、連邦議会の議事堂に乱入した犯罪のほうを図がらに当てはめことができて、そちらの事実としての不祥事のほうをより重んじて見てみられる。

 事実としての不祥事のほうをより重んじて見てみられるとすると、そこから言えることとしては、まっとうではない集団のあり方から不祥事がおきてくることがあるので、そのあり方を改めるようにすることだ。まっとうな集団のあり方になるようにして、外にたいして開かれるようにして、できるかぎり法の決まりを守って行く。集団の内と外の社会とのあいだで二重基準(double standard)にはならないようにして行く。そうすることがひいては社会の全体の中で不正義がおきることを防ぐことにつながって行くのではないだろうか。

 集団のあり方と正義とが相関していると見なせるとすると、まっとうではない集団のあり方になっているとそこから正義が損なわれることがおきかねない。集団の中で不祥事がおきやすくなる。それを防ぐためにはまっとうな集団のあり方になるようにして行く。国などの大きな集団にも危険性はあるが、小さい集団(部分集団)だと同質化の圧力がよけいにきつくはたらいてしまうことがあるとされていて、そこに気をつけたい。集団の中の和のしばりがきつくはたらく。

 小さい部分集団のもつ同質化の圧力などの危なさに気をつけるようにして、なおかつ大きな集団のもつ危なさにも気をつけるようにして行きたい。世界の全体からすれば一つの国は小さい部分集団だから、その中での同質化の圧が強まりすぎて国家の公が肥大化しないようにもして行きたい。国家の公の肥大化がおきないようにして個人の私を重んじて行く。全体と部分の大と小は相対的なちがいにすぎないものだから、より上位(meta)の全体からすれば一部分に当たることになり、たとえどのような集団であったとしても同質化の圧力が強くなりすぎる危なさがつきまとう。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『考える技術』大前研一現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『論理的に考えること』山下正男