アメリカの大統領選挙で不正があったとされることと、新大統領の就任式は行なわれなかったとされること―はたして何を信じたらよいのかと、真相はいったいどこにあるのかと、ものごとの構築性(非客観性)

 アメリカの大統領選挙は盗まれた。不正があった。それなのにもかかわらずジョー・バイデン氏が新しいアメリカの大統領についている。バイデン氏の大統領の就任式は映像が架空につくられたものであり、じっさいにはそれは行なわれていない。

 アメリカで新しい大統領がついたことの流れの中でそうしたことが言われているのがあるが、それらについてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。その中で、人類が月にたどり着いたことになぞらえられるのがあるかもしれない。

 アメリカが人類ではじめて月にたどり着いた歴史のできごとがあるが、これが行なわれたときには、それは嘘だとする声がおきたのがあったという。月にたどり着いたのだとはいってもその映像は架空につくられたもののおそれがある。だからほんとうは人類は月にはたどり着いてはいない。そうした声がおきたのである。

 人類が月にたどり着いたのかどうかは、大がかりなできごとだから、いろいろな人が関わっている。いろいろな人が関わっている中でそのすべての人をだますことはできづらいから、かかわっているすべての人がだまされているのだとするのは合理性が低い。見かたとしてはそう見られるのがあるから、人類が月にたどり着いたとするのがいちおう合理的だとされる。

 国の政治のもよおしはかなり大がかりなものだから、それにかかわっているすべての人がみんなきれいにだまされているとはやや見なしづらい。じっさいのところはわからないのはあるかもしれないが、かかわっている人がみんな漏れなくきれいにだまされているとはしづらいので、政治のものごとがいちおうはそれなりにきちんと実行されているのだとすることにはそれなりの合理性がある。

 うたがおうと思えば色々なものをうたがえるのはたしかだが、何のどこをうたがうのかがある。いろいろなもののいろいろな点についてをうたがい出したら切りがないのもまたたしかだ。より上位(meta)のところや土台や枠組みのところについてをうたがうことがなりたつ。国のような大きなものごとになると、それがまちがいなくあるのだとすることには飛躍や跳躍がつきまとう。

 どこまでがうたがえることでどこまでが信じられることなのかがむずかしい。何もかもをすべてうたがうとなるととりつく島やよすがとなるものがない。そこには終わりがなく底がない。底なしであり、そこが底だとおもったらそこは底ではないといったことになる。底となる根拠があるのだとしても、その根拠の根拠の根拠の、とさかのぼるとどこまでもつづいて行き無限に後退して行く。

 たとえうたがわしさがあるのだとしても、それだからといってそこにまったく少しの信ぴょう性や合理性もないとはいえそうにない。多くの人を巻きこむような大がかりなことなのであれば、それに関わっているすべての人をきれいに漏れなくだますのにはそうとうな大きな労力がかかるから、逆にだますことに合理性がなくなってくるところがある。

 演繹(えんえき)として完全に真や偽であることをしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらいのがある。上から演繹で完全に真や偽と言うことはできづらいから、下からの帰納(きのう)によって見てみられるとすれば、それなりの真や偽といったことにとどまる。

 下からの帰納によるとすると、いろいろな人を巻きこむような大がかりな政治のもよおしでは、それに関わっているすべての人をだますことは逆にむずかしい。きちんと行なわれるべき政治のもよおしがあって、それが行なわれたと公に伝えられているのであれば、公に言われているとおりにいちおうはそれがきちんと実行されたのだとする仮説をとることができる。

 政治のもよおしがいちおうは行なわれたのだとする仮説はあくまでもさしあたってのものにすぎず、その中にまちがいを含んでいるおそれはあるが、その点については、それとはちがう仮説をとるのだとしてもそれと同じことが言えるのがある。たとえどのような仮説をとるのだとしてもいずれにしてもその中にまちがいを含んでいるおそれがあり、非の打ちどころがないほどの完全な合理性をもっているとは言いがたい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『愛国の作法』姜尚中(かんさんじゅん) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信 『社会問題の社会学赤川学