報道されることにおける量と質―どちらも大事なことではある

 首相がとるに足りないような行動をする。そうしたことであったとしても何かそこに大きな意味あいがあるかのように報道機関で報じられることがある。あらためて見てみるととるに足りないことであり、だから何なのだ(so what?)といったところがある。なぜそうした報道が行なわれることがあるのだろうか。それはひとつには首相にたいして強く焦点が当てられすぎていることによるのがあるだろう。

 認知と評価と指令の三つの点がある中で、報道機関の一部は認知しかできていない。あとの二つの評価と指令(こうするべき、ああするべき)ができていない。そのことによって報道が大本営発表のようになる。首相が何か言ったり何かしたりしたら、それをただたれ流すことになる。

 認知すらできていないのであれば、首相が何かを言ったり何かをしたりしてもそれを見逃す。見逃すことになれば何も報道されない。見逃してしまうよりは見逃さないようにしたほうがまだましだといったことで、認知だけはしっかりと行なう。認知だけはできているのだとしてもそこに評価と指令が欠けてしまっていると大本営発表のような報道になる。

 大本営発表のような報道になるのを避けるためには認知だけがあるのでは不十分だ。評価と指令がなければならない。認知だけがあるのだと、報道する値うちがあることなのかどうかがないがしろになる。報道する値うちがあるかどうかは評価が関わってくることだから、そこが欠けていると、報道する値うちがないことであったとしても値うちがあることだとされてしまう。

 値うちがあることなのかどうかを評価するためには、首相が何かを言ったり何かをやったりしただけでそこに大きな意味あいがあるのだとしてしまってはまずい。首相の一挙手一投足をただ報道するだけでは認知はできているのだとしても評価や指令ができているとはいえそうにない。

 哲学の新カント学派の方法二元論では事実(is)と価値(ought)の二つを分けるあり方がとられるという。この二つによって見てみられるとすると、首相が何かを言ったり何かをしたりしたことを少しでも多く報じるのは事実の認知に当たる。事実を認知することからは価値は出てはこないから、価値についてはまた別に見て行かなければならない。

 事実の認知にいくら力を入れたのだとしても価値のところがとり落とされていると報道が大本営発表になるのを避けづらい。事実を認知することと価値とは別のことがらだといえるのがあるから、事実を認知することだけに力を入れていると価値がなおざりになってしまう。価値がなおざりになっていると評価と指令がとり落とされることになるから、ひどくいいかげんな評価になったりおかしなことをうながしてしまったりしてしまいかねない。

 できるだけ価値のところはカッコに入れるようにして、主観が入りこまないようにして、事実の認知だけに力を入れて行く。それはいっけんすると客観であるかのように見なせるものだが、そこにはよし悪しがあって、悪くはたらくと大本営発表のようになる。いっけんすると客観のようであったとしてもじっさいには客観ではないことになる。

 値うちがないことが報道されてしまったり、大本営発表のようなことが行なわれてしまったりするのは、報道する側に価値のところが欠けているからだ。事実の認知はできているのだとしても評価と指令のところが欠けている。事実を認知する量をどんどん増やしていったのだとしても、そこからは価値は出てはこないのがあるから、どのように評価をしてどのように指令をするのか(どうするべきなのか)を欠かさないようにしたい。

 価値だけをとり上げていればよいのではないから、事実を認知して行くことはいることではあるが、それは必要なことではあったとしてもそれで十分なことだとはいえそうにない。必要なことの一部ができていたとしてもそれで十分ではないのであれば大本営発表のようなことが行なわれることになってくる。きちんとまっとうな評価ができるようにしてまっとうな指令ができるようになれば、大本営発表のようなことはかなり減ることがのぞめる。

 報道する側が自然主義のようになってしまっていて、首相が何かを言ったり何かをやったりしたのであれば、それはぜんぶがそのままの形で報道するべき値うちがあることがらだと見なす。ぜんぶが大きな意味あいをもっている。そう見なしているのがあるとするとそれはである(is)からであるべき(ought)を導いているのがあるから誤びゅうにおちいっているところがある。

 何かを報じるとそれがあるていど以上の真実味を帯びてしまうのがあるからそこに気をつけることがあればよい。単純な自然主義にはなるべくおちいらないようにして、事実の認知だけではなくて価値のところの評価や指令をきっちりとするようにすれば大本営発表のようなことは完全にゼロにすることはできないかもしれないがそれが行なわれづらくなることはのぞめる。

 参照文献 『三人で本を読む 鼎談書評』丸谷才一 木村尚三郎 山崎正和 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠