ドナルド・トランプ大統領こそがアメリカの真の大統領なのだろうか―真のほんものとにせものとのあいだの分類線の揺らぎ

 アメリカの真の大統領はドナルド・トランプ大統領だ。日本で行なわれたトランプ大統領を強く支持するデモで配られていたパンフレットの中ではそう言われていた。パンフレットで言われているように、アメリカの真の大統領はジョー・バイデン氏ではなくてトランプ大統領なのだろうか。

 真のものはこれだとする言い方は大衆迎合主義(populism)に見られるものだという。トランプ大統領を強く支持するデモでは大衆迎合主義の語り口が用いられていることがうかがえる。

 まちがいなくトランプ大統領こそがアメリカの大統領であるとしたて上げたり基礎づけたりできるのかといえばそれはできづらい。性急にトランプ大統領のことをアメリカの真の大統領だとしたて上げたり基礎づけたりすることにはいまいちど待ったをかけてみたい。科学のゆとりをもつようにしたい。

 共和党に属しているのがトランプ大統領だ。政治において政党はその国の全体を代表しているとは言いがたく、あくまでも部分を代表しているのにとどまる。部分(part)を代表しているのにとどまるのが政党(political party)なのだから、全体化されるのではないことがいる。非全体化されるのでなければならない。哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は非真実だと言っている。

 部分を代表しているのにとどまるのが共和党であり、そこに属しているのがトランプ大統領だ。アメリカのすべての国民をトランプ大統領がまんべんなく代表しているとは言えそうにない。そこには漏れや抜かりが避けがたくある。

 国民がじかに政治にたずさわるのだと大変だから、それを肩代わりするのが政治家だ。政治家は国民の肩代わりをするものであり表象(representation)にすぎない。表象である政治家は国民そのものではないから、そもそもの話として真のものではない。政治家はにせのものにとどまる。うまく行ったとしても国民の近似値であるのにすぎず、そこには避けがたくズレがある。

 真のものであるのよりもその逆ににせのものであるからこそトランプ大統領は批判されなければならない。そう言うことができるかもしれない。表象にすぎない政治家なのがトランプ大統領だから、国民そのものではなく、国民とぴったりと一体化して合っているものではないために、ずれがおきてこざるをえない。

 国民とのずれがまったくないとするのだと、政治家との距離がとれなくなる。距離がとれなくなると政治家にまひさせられてしまう。国民がまひさせられてしまうと集団がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうことがおきてくる。まひさせられるのを防ぐためには政治家と一定より以上の距離を保つことがいる。

 にせものさがあることをまぬがれることができないのが政治家であり、真のものだと言い切ることができるほどのものだとは言えそうにない。どこまでもにせものさがついてまわるのが政治家のもっている宿命であり、そこに政治家の弱みがある。にせものさがついてまわるのを隠ぺいして、まちがいなく真のものだとするのだと、それそのものがにせものじみたことになる。たとえどのような政治家であったとしても多かれ少なかれそこににせものさがついて回っているのが本当のところだろう。

 にせものさを持っているのにも関わらずあたかもそれを持たないかのようによそおって、他の者にそのにせものさをなすりつけて悪玉化するのは、自分がもっているにせものさをおおい隠すことなのをあらわす。政治家において真のとすることはなりたたないのがあるから、どの政治家も多かれ少なかれにせものさをもっているのにとどまっている。それは政治家が国民の意思をくみとる媒体(media)だからである。媒体であることからそこに漏れや抜かりやかたよりがおきてくる。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり)