記号としての新型コロナウイルス(COVID-19)のとらえづらさからくるやっかいさ―それは何か(what)の固有名詞の性格をはっきりと定めづらいところがある

 ウイルスの感染が社会の中で広まっている。その中で、新型コロナウイルス(COVID-19)は深刻なものなのかそれとも大したことがないものなのかのどちらなのだろうか。

 ウイルスは深刻なものだとも言われているし、大したことがないものだとも言われていて、どちらの声も言われている。このちがいはそもそもの大前提となる価値観のちがいである。人それぞれによって大前提となる価値観にちがいがおきていて、ばらばらになっているところが部分的にある。

 記号としての新型コロナウイルスは、たとえば目の前にあるくだもののりんごのようにじかに目で見たり手で触れたりできるものとは言いがたい。記号としての新型コロナウイルスは具体性によるものではないから、人それぞれによって記号のとらえ方にずれがおきてくる。それぞれの人の前提条件にずれがおきて食いちがいがおきてくる。

 目の前にあるくだもののりんごであればそこに具体性があるから記号のとらえ方に人それぞれのちがいがおきづらい。それとはちがって新型コロナウイルスは目に見えないくらいの小さいものだから不確かさがつきまとう。

 具体性の確からしさによることができづらいのが新型コロナウイルスにはあるから、それをとらえるさいにいることは科学のゆとりだろう。不確かなところがあるのが新型コロナウイルスだから、科学のゆとりをもつようにして、わかったつもりにはならないようにする。

 たった一つの見かただけにこだわらないようにして、科学のゆとりをもつようにして、いろいろになりたつ見こみのある仮説を否定しないようにする。まったくもって正しい仮説とまったくもってまちがった仮説といったように完全な二分法で分けないようにして、それなりになりたつ仮説なのであればそれを否定しないようにしておく。

 触知可能(tangible)ではないところに新型コロナウイルスのやっかいさの一つがあるのだとできる。そのやっかいさがある中で求められることになるのは科学のゆとりをもつようにすることであり、具体性や確からしさが欠けていることからくる決めがたさや不確かさがあることは避けることができづらいことだとして行きたい。

 ものごとを見て行くさいには、それはいったい何であるのかの何(what)のところに強い焦点が当てられやすい。これは、それは何だろう反射と言われるものだ。人間の大脳の中での反射のはたらきである。条件反射に当たるものであり、探求反射とも言われる。

 そこにあるとされるものが何なのかがわからないと、えたいの知れないものにとどまりつづけてしまう。それが何かがわからなくてえたいの知れないものでありつづけると不安が払しょくされない。不安を払しょくするためにはそれが何であるのかを決めつけないとならないのがある。

 えたいが知れないままにとにかく何かがあって何かがおきているとするのだとばく然としすぎている。何かがあって何かがおきている(またはおきていない)のをできるだけ特定して行くさいに、その特定のしかたが雑で乱暴だとまちがった見なしかたになることがある。

 特定できない不特定さと、はっきりと特定できることとがあり、そのあいだの中間のあわいがある。まったく特定することができない不特定さではなく、はっきりと特定することができるのでもない、その中間のあわいのところのものにはやっかいさがつきまとう。気体や液体だと発散や流動によるからそれが何であるのかを定めづらくて、固体だと定めやすいが、そのどちらでもある(どちらでもない)ありようだ。現代思想でいわれるものでは、地下茎(rhizome)は定めづらくて、樹木(tree)は定めやすい。

 特定化して対象化することができないのとそれらができるのとの中間のところにあることから二重性がおきてくる。対象化することができづらいところを抱えているが、そのいっぽうであるていどより以上は対象化することができるところもある。そうした二重性をもつものには不安定さがあることになる。はっきりと対象化できるのであればあるていどの安定性がおきるが、とらえがたいところがあるものは安定していないところをもつ。安定していないと変化して行くのがあるから、その変化することをくみ入れておくことがいる。

 参照文献 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『記号論』吉田夏彦 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『Q健康って?』よしもとばなな 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『安部公房全集五』安部公房(こうぼう)