新しくアメリカの大統領につく予定のジョー・バイデン氏には大統領としての客観の正当性はあるのか―政治家による(自己)正当化

 大統領選挙は盗まれた。選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。それで大統領の支持者の一部がアメリカの連邦議会の議事堂に不正に入りこむ犯罪を引きおこした。このことについてをどのように見ることができるだろうか。それについてを正当性や正統性の点から見てみたい。

 社会学者の宮台真司(みやだいしんじ)氏によると、正統性は正当性を含み、人々が自分から権力に従うことだという。人々が権力を認めて言うことを聞く。そのさいに権威のもとがどこにあるのかが関わる。

 アメリカの大統領の選挙では、選挙が行なわれたことは形式の手つづきなのをあらわす。形式の手つづきがとり行なわれたのがあり、その結果が出たことによって民主党ジョー・バイデン氏が大統領として新しく選ばれることになった。

 形式の正当性の点ではジョー・バイデン氏が新しくアメリカの大統領に選ばれることになることには一定の合理性がある。そう見られるのがありそうだ。アメリカの国の選挙にはそれなり以上の信頼性があるだろうから、まったくそこに何の信頼性もないとは言えそうにない。

 アメリカで行なわれる選挙にはまったく何の信頼性もないとは言えそうにない。もしもまったく何の信頼性もないのであれば、選挙を行なうことに意味はないだろう。選挙を行なってそこから結果が出るのは、だれかが勝ってだれかが負けるといった事実ができ上がることだ。事実(is)ができ上がることは、いちおうは価値(ought)とは区別することができるから、事実そのものには価値は含まれない。そういう見かたもなりたつ。

 事実として選挙でだれが勝ってだれが負けたかには、そこには価値が含まれないことになり、だれが勝ってだれが負けようともそれそのものには価値はない。ただの事実だからである。事実は価値ではないから、事実を知ったところでそこから価値は出てはこない。価値はまた別の話である。選挙でだれが勝ってだれが負けたかなどの事実がある中で、それが意味することになるよし悪しなどの価値については人それぞれにちがいがあるからそこには相対性や主観性がつきまとう。

 あらかじめ決まっているのではない任意のだれかが勝ったり負けたりすることになるのが選挙だ。任意であるのは、必須ではないことであり、具体のだれかが勝たないとならないとは言えないし、具体のだれかが負けないとならないとも言えそうにない。任意ではなくて必須になるのだとどちらかといえば民主主義であるよりも独裁主義や専制主義に近くなることになる。任意ではなくて必須になるのだと、形式の過程の手つづきよりも実質がどうかがより重んじられることをあらわす。

 事実と価値を分ける見なし方は哲学の新カント学派による方法二元論によって見たものであり、じっさいには事実と価値ははっきりとは区別できないところがあるとされる。事実の中に価値がすくなからず入りこむ。だから選挙で勝ったり負けたりすることに一喜一憂することになる。結果にたいしてよろこんだりがっかりしたりする。それが人間のあり方だろう。

 形式の正当性を満たしているのとはちがうところで、感情などの広い正統性においてはどうしても受け入れがたい。納得ができない。事実としての選挙の結果そのものであるよりは、価値のところで信頼することができない。信頼性を見いだせない。もしくは信頼性を見出したくない。それがあるために、トランプ大統領は選挙の結果で負けたことを引き受けようとはしていない。

 トランプ大統領は自分が権威を持ちつづけたい。自分の権威を失いたくない。じっさいに権威を持っている(持ってしまっている)のがあり、トランプ大統領の言うことをそのままうのみにして従う支持者が一部にいる。トランプ大統領はその自分がもっている権威を活用(悪用)しつづけている。

 広い正統性においては、トランプ大統領は自分が権威を持ちつづけたいのがあり、それを失いたくないのがあるから、おもに感情の面で支持者の一部をたきつけている。感情として受け入れたくないとするのは広い正統性が関わってくることだから、主として感情としてジョー・バイデン氏を新しい大統領として認めることをこばむ。

 あくまでも感情としてジョー・バイデン氏を新しい大統領として認めたくないと言ってもそこにかならずしも説得性があるとは言えないところがある。だからそこにより説得性をもたせるために正当性の響きをつけ加える。トランプ大統領は自分が言っていることに正当性の響きをつけ加えて正当化することを試みている。自分が言っていることにいかに合理性があるかを言う。いかに自分が言っていることが正義なのかを言う。

 つり合いの点でふさわしいあり方としては、形式の正当性の点にかぎっていえば、形式の手つづきである選挙をいちおうは行なったのがあるから、その点からするとジョー・バイデン氏が新しい大統領になったのを認められる。たとえしぶしぶではあるにせよそれを認められるのはあるが、それよりも広い正統性においてはジョー・バイデン氏のやることや言うことをそのままよしとすることはない。きびしい目で見て行く。これは一面性ではなくて二面性によって見るあり方だ。

 一面性で見てしまうと、ジョー・バイデン氏がアメリカの新しい大統領になることそのものを頭から全否定することになり、そこにまったく形式の正当性がないと見なす。ジョー・バイデン氏が権威を持つことをまったく少しも認めようとしない。

 一面性ではなくて二面性によって見るのであれば、新しい大統領にたいしていちおうは形式の正当性は認めて、そこに権威があることは認めつつも、だからといってやることや言うことをすべてよしとするのではない。大統領についてをきびしく見て行くようにして、批判をしつづけて行く。広い正統性においては大統領のことをよしとしていないのがあるから、半分は肯定しつつも、完全に肯定はしない。完全に大統領のことを肯定してしたて上げたり基礎づけたりはしない。民主主義におけるつり合いのとり方としては、全肯定や全否定とはちがったやり方がなりたつ。

 参照文献 『日本の難点』宮台真司 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『政治家を疑え』高瀬淳一 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『人間と価値』亀山純生(すみお)