テレビによく出ていて目だっている政治家は仕事をたくさんしていることになるのか―たんに画うつりがよいだけかもしれない

 テレビによく出ている政治家がいる。そうしたテレビにしばしば出ている政治家にたいして、よく仕事をしているとの評価がされているようである。テレビにあまり出ない政治家よりも、テレビによく出る政治家のほうが、よく仕事をやっていると評価される。

 テレビによく出ているからといってその政治家はよく仕事をやっていることになるのだろうか。なぜよくテレビに出る政治家がいるいっぽうで、あまりテレビには出ない政治家がいるのだろう。

 すべての政治家にとってテレビに出ることが損になるのであれば、政治家がテレビに出ることはあまりなくなる。たとえ自分が損をしてでもこれだけは伝えなくてはといったときにかぎってテレビに出てくることになる。またはたとえ自分が損をしてでも民主主義のためにテレビに出て人々に伝えることを行なう。

 日本のテレビや政治のあり方は、目だちやすい政治家がテレビに出るとその政治家が得をする。テレビに出たら損をするのではなくて、政治家にとって得になるのがあるから、ばんばんテレビに出る。

 もしもテレビに出る人が政治家にたいしてきびしくつっこむのであれば、テレビに出ることで政治家は損をしやすい。いろいろとぼろが出て化けの皮がはがれる。日本のテレビではテレビに出る人が政治家に甘いことが多く、政治家にきびしくつっこむことが行なわれづらい。日本のテレビはその弱みをもつが、政治家はそのテレビの弱みにつけこんでいる。弱みを悪用している。

 権力をもつ政治家は力によって自分にたいするつっこみをさせないように報道機関をおさえこむ。報道機関への監視をおこたらない。政治の権力が力を振るうとそれに報道機関はさからいづらい。放送法や放送の許認可権が、政治家を批判する表現をとりしまるはたらきをしてしまっている。そのテレビの弱みがあるがために政治家がテレビに出ると得をすることになる。

 テレビは言っていることの内容に目が向けられるよりは、むしろ画うつりがどうかがより重んじられる。たとえ言っている内容がしっかりとしていても画うつりが駄目なのであればテレビにはとり上げられづらい。言っている内容がどうでもよいものであったとしても画うつりがよければテレビにとり上げられやすい。そのかたよりがある。テレビは画によってごまかしがきく。

 言っている内容がどうかではなくて画によってごまかしがきくのがテレビだから、画うつりがよいだけでその政治家にたいする評価が高くなる。画うつりがよいとテレビにとり上げられやすくなってその政治家にたいする評価が高くなり、よく仕事をやっていると評価されることになる。テレビによって政治家にたいする評価がねじ曲げられている。テレビによって政治家にたいする評価がゆがむ。

 テレビに政治家が映る。テレビに政治家が出る。そのさいにまったく純粋に政治家がテレビに映ったり出たりするのだとは言いづらい。そこには作為性や意図性や政治性が少なからずあるのはいなめない。

 ありのままの生の現実を純粋に映すのがテレビではないから、テレビが伝える情報は少なからず汚染されてしまう。日本のテレビは政治家が言うことをそのままたれ流すことが少なくなく、そのために政治家が発する汚染された情報がそのまま流されてしまう。できるだけ情報の中に含まれる汚染である作為性や意図性や政治性をとり除いて少なくしようとする意識がテレビの世界にはうすい。効率が重んじられていて適正さがないがしろになっている。

 政治家がテレビに出て悪いことはないのはあるが、できるだけまんべんなくとり上げるようにして、そこにえこひいきがおきないようにしたい。テレビでとり上げる政治家がかたよりすぎていると目だつ政治家と目だたない政治家との格差がおきる。

 場合分けをして見てみられるとすると、目だっているからといってその政治家がよく仕事をやっているとかすぐれているとは言えそうにない。画うつりがよいことでテレビに出ることにとくに適合化しているだけであり、テレビに出ることが自己目的化してしまっていることがある。

 目だっていない政治家だからといって、仕事をしていないとかすぐれていないとは言い切れないものだろう。テレビに出ることによって注目を浴びて目だつことは、それそのものが人々の益になることではない。人々にとって益になることをやるためにはいろいろな手段があり、はでな手段ばかりではなく地味な手段も多くあるとすると、評価されづらい地味な手段をしっかりとやって行くこともいることだろう。

 お金をもうけるための商売のところがテレビには強いから、じっくりと時間をかけてものごとの内容を深めて行くのにはあまり向いていない。効率性が重んじられて適正さが軽んじられる。表面的な短期の視点になりがちだ。そうしたテレビのあり方にとくに適合化している政治家は、政治の仕事をしているつもりになっているおそれがある。

 どういったことであれば政治の仕事をしていることになるのかの評価のものさしを持ちづらい。それが持ちづらいのがあるために、さしあたってはテレビによく出ていて目だっている政治家であれば仕事をよくやっているとかすぐれているのだと評価することにしてしまう。そうしたことがあるとすると、そこに見られるのは政治家にたいする評価のできづらさだ。

 へたにしっかりとした仕事をしたとしたらかえって政治家にたいする評価は下がるかもしれない。しっかりとした政治の仕事を政治家がしたとしてもそれがよいことだとかよくやったとはかならずしも評価されない。そのときには評価されないことがほんとうに重要なことがあるから、そのときにほとんど評価されていないからといってそれが重要ではないことにはならない。そのときに評価されていたとしてもそれがそのごにずっとつづく保証はない。

 画うつりがよかったり耳に快く響いたりすることが好まれる。耳ざわりのよいことを言うと受け入れられやすい。いま手にしている快適さを壊すようなことを政治家がしたとすれば、たとえそれがためになることであったとしても、やらなくてもよいよけいなことをしたと見なされてしまう。

 政治家への評価には難しさがあり、政治家と国民とのあいだでおたがいに持ちつ持たれつのなあなあによる負の相互作用の悪循環がはたらいてしまうことがある。負の相互作用の悪循環によって下方に落ちていってしまうのを少しでもくい止めるためには、いまおちいっている低い合理性をうち破るような高次の学習(higher-level learning)が行なわれることがいる。

 高次の学習のためには、民間のトヨタ自動車で行なわれているようななぜ(why)の問いかけをいろいろなところにたいしてくり返しやって行く。問題が見つからなければそれでよしとするのではなくて、問題が見つからなければそれが見つかるまでねばり強く探して行く。問題が見つかったらそれをむしろ喜ぶ。問題を見えないように隠すのではなくて明るみに出す。そうしたことがあったらものごとの改善につなげやすい。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進