なにが虚偽答弁なのかの定義づけと、信頼と不信―枠組みのずれと不信

 虚偽答弁の定義づけはない。与党である自由民主党官房長官はそう言っていた。なにが虚偽答弁に当たるのかのはっきりとした定義づけはないとしている。はたして官房長官が言っているようなことでよいのだろうか。

 たしかに、なにが虚偽答弁に当たってなにがそれに当たらないのかははっきりとさせづらいのはあるかもしれない。どれがそれに当たるのかは解釈によるものだから、分類づけをするさいに分類線の揺らぎがおきる。うそだと分類づけをする人もいればそうではないと分類づけをする人がおきてくる。

 政治の権力のことを信頼するのは、枠組みのずれがないことによる。おたがいの価値が合っている。枠組みがずれていて価値が合っていないと政治の権力を信頼できない。政治の権力が言うことややることを信頼できるかどうかは、枠組みのずれがなくて価値が合っているかどうかによる。それは虚偽答弁の定義づけのありなしとはまた別なところの話だ。

 そんなに大きくは期待できないにしても、せめてこれくらいのまともさは最低限でも持っていてほしいとのぞむところが欠けていて、政治の権力のことを最低限においてですら信頼できないのであれば不信にならざるをえない。いくら政権が保身のためにうそをついてとりつくろったりごまかしたりしたとしても、それが一部には通じるかもしれないが全面としては通じないことがあるから、通じないところには信頼がなりたたず不信がおきる。

 白を黒と言ったり黒を白と言ったりすることがおきると政治においてはきわめて危険だ。その危険さがあるので、虚偽答弁は虚偽答弁ではないといったような、白いものを黒いことにしたり黒いものを白いものにしたりする矛盾がおきないようにしたい。戦争は平和だとか、悪は善だとかといった矛盾だ。それがおきづらいようにするためには、修辞(rhetoric)によりすぎないようにすることがいる。

 なにかを定義づけするさいには客観にそれをするよりは修辞によって定義づけすることが多いので、どこかだけに有利になるような定義づけが行なわれるとかたよりがおきるのでまずい。修辞による定義づけによってどこかだけに有利になるようなかたよりがおきていないかどうかをつねに気をつけるべきだろう。

 官房長官が言うようになにが虚偽答弁に当たるのかがはっきりとしていないとさしさわりがおきてくる。政治の権力がうそを言いたいほうだいになってしまいかねない。そうなってしまうのを防ぐためには、他から聞かれたことにまともに答えずにはぐらかすのではなくて、他から聞かれたことにできるだけまともに答えようとすることが政治の権力にはいる。すれちがい答弁ばかりを政治の権力がしつづけていると政治の権力がうそをつくことがどんどん許されてしまうことになる。

 政治の権力がうそを言いたいほうだいになってしまうと、政治の権力がなにを言ったところでそれがまともに受けとられなくなる。すべての人がまともに受けとらなくなるとは言い切れないが、まともに受けとらなくなる人がそれなりの数になれば、なにかを言いあらわすことそのものが機能しづらくなる。政治の権力がなにかを言いあらわしたところでそれが嘘だと受けとられることになると、なにかを言いらわすことそのものの機能が壊れてしまうことになり、うそも本当もなくなってしまう。うそと本当の区別が壊される。うそが本当になり本当がうそになりとなる。

 うそと本当の区別がつかなくなれば元も子もない。そうなってしまわないようにするためには、虚偽答弁をしてもよいのだといったたるんだあり方を改めるようにして、なにかを言いあらわすことが無意味なものにならないようにして行きたい。修辞ばかりが使われるようだとうそと本当の区別がつきづらくなり、なにかを言いあらわすことが無意味になり、ただ表面において耳に空疎に響く埋め合わせや埋め草の空言ばかりが政治で言われることになる。

 何かを言いあらわすことが機能せずに無意味になっているのからそれが機能するようにして意味があるようにするためには、政治の権力が他から聞かれたことにまともに受け答えるようにして行く。聞かれたことにしっかりと受け答えて行く。すれちがい答弁をなくして行く。議会の内や外の反対勢力(opposition)を排除しないで反対勢力とのやり取りをしっかりとやって行く。それがまずいることだろう。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり)