桜を見る会のことに見うけられる、公人である政治家の危機管理の欠如と自分の名誉にたいする保身(保守性)―政治家や国の自己保存

 自分は悪くはない。自分は不正には関わっていない。すべて悪いのは事務所の秘書だ。自由民主党安倍晋三前首相はそう言っているという。桜を見る会のことについて、事務所の秘書が悪かったのであり安倍前首相はまったく少しも悪くはなかった。安倍前首相が言っていることははたしてほんとうのことなのだろうか。

 安倍前首相が桜を見る会のことについて言っていることに見うけられるのは、危機管理のできていなさだ。それと公人である政治家が自分の名誉を重んじすぎてしまっていることがたたっていることだ。自分で自分の名誉を高くしすぎていて自分で自分の首をしめているところもないではない。実像からへだたった、自分はこうであらねばならないといったりっぱすぎる虚像が形づくられる。公人である政治家の名誉を重んじすぎていることから、政治家への追及が甘くなっている。

 危機管理のできていなさが安倍前首相には見うけられる。それが見うけられるのは安倍前首相が自分はまったく悪くはなくて自分は被害者だとしていることからうかがえる。危機管理をするうえでは自分は悪くはなくて自分は被害者だとしてしまうとそれができず、危機から回避することにしかなりづらい。危機にまともに対応できていない。

 事務所の秘書が悪いのだとするのではなくて、安倍前首相は自分を加害者だと見なすようにする。事務所の秘書にすべての悪いことをなすりつけるのではなくて、公人である政治家が自分のことを加害者だとして自分が悪かったのだと見なす。危機管理においてはこれが必要なことだろう。それをやりたくないのが安倍前首相だ。なぜやりたくないのかといえば、自分の名誉がほんの少しであったとしても傷つくことがいやだからだろう。

 自分の名誉が傷つくことを引きうけるようにすることが、公人である政治家にはいる。それをたとえ少しであったとしても引きうけることがいやなのであれば、そもそも公人である政治家にならないほうがよい。公人である政治家であるからには名誉が傷つくことを引きうけるようにして、社会の中の表現や報道の自由を大きく認めて行く。それとは逆行することをしてしまっているのが安倍前首相や与党である自由民主党の政権がやっていることだろう。

 政治家が自分の名誉を重んじたり国の名誉を重んじたりする。国家主義(nationalism)ではそれが見られる。これは政治家や国の自己保存のあり方だ。政治家や国が自己保存をすることに力を入れすぎると表現や報道の自由が損なわれることになる。いまの日本の社会はそうなっているのがあるからそれを改めるようにしたい。

 政治家や国の名誉を重んじて自己保存に力を入れるのではなくて、表現や報道の自由をもっと重んじて行く。たとえ表現や報道の自由をなくしてでも政治家や国の名誉を重んじて自己保存に力を入れるようだと国民のためになりづらい。それだと国民の知る権利が十分に満たされなくなり国民が自己統治や自己実現をすることがさまたげられる。国民の知る権利が十分に満たされていないと政治の監視ができづらく政治の権力が自分たちに都合がよいことができてしまう。

 公人である政治家はいざとなったら危機管理をして行くようにするべきだが、それができていなくて、自分の名誉を守ることばかりにかまけて、事務所の秘書に悪いことをなすりつける。それが個人である政治家や、上に立つ人間のやるべきことなのだろうか。安倍前首相は自分の名誉を大切にしすぎているのがあるが、そこに見うけられるのは科学のゆとりが欠けていることだ。ただたんに自分の名誉が守られさえすればそれでよいのだとしているようである。

 もしも安倍前首相が科学のゆとりをもっているのだとすれば、自分の名誉を守ることばかりにかまけるのではなくて、自分の名誉が傷つくことを自分から引きうけて行く。自分の名誉を守るために事務所の秘書に悪いことをなすりつけないようにする。公人である政治家が加害者であり悪かったのだとすることは、公人である政治家の名誉が傷つくことになるが、それをいとわないようにして、危機から回避するのではなくて危機に対応して行く。

 公人である政治家が自分の名誉を守ることを重んじすぎるのは、他からほめられたり票を得たりお金を得たりすることを重んじることにつながって行く。他からほめられたり利益を得たりすることなどを重んじるのは外発の動機づけだ。外発の動機づけが主になると、内発の動機づけが損なわれることがおきてくる。たとえ他からほめられなくても、または自分が利益が得られなくても、やるべきことだからやる(またはそれをしたいからやる)ことが内発の動機づけにあたる。

 外発の動機づけばかりになっていて内発の動機づけが欠けているのが安倍前首相や自民党の政権には見られる。内発の動機づけが欠けているために、きちんとした危機管理をやろうとする動機づけが持てていない。科学のゆとりが欠けてしまっている。外発の動機づけにかたよりすぎていて科学のゆとりが欠けてしまっていると、何のために何をやるのかがわかりづらくなる。

 何かのために何かをやるさいには、外発の動機づけだけによっていて科学のゆとりが欠けていると、まちがった方向に進んでいってしまう。そうしたことがおきてくることがあり、それがあったのが戦前や戦時中の日本の国だ。戦前や戦時中の日本は国としてまちがった方向に向かってつっ走って行った。何のために何をやるのかがわからなくなっていてめちゃめちゃだった。国民がこうむらなくてもよかったはずの害が国民を含めていろいろなところにおきた。

 外発の動機づけだけではなくて内発の動機づけをもつようにして、安倍前首相や自民党の政権は何のために何をやるのかを改めて見直してみてはどうだろうか。それを見直して見てみられるのだとすれば、何をすることが何にたいして功を奏して、何をすることが何にたいして功を奏さないのかを改めて見直すことに少しはつながる。

 科学のゆとりが欠けてしまっていると、功を奏することだとしていることがじっさいには功を奏さないことがおきてくる。それを少しでも防ぐためには科学のゆとりを少しでも持つようにして、その場かぎりのものでしかない短期の利益を得ることに走らないようにするべきだろう。

 たとえ公人である政治家が(自分の事務所の秘書に悪いことをなすりつけてでも)自分の名誉を守ることを重んじるからといって、得やすいものは失いやすい(easy come,easy go)とも言われるから、そこに気をつけるようにしたい。いますぐにかんたんに手に入れられることなのであれば、その時点にかぎってのことであり、持続性がないことがある。

 てっとり早く手に入れられるその場かぎりの短期の利益を公人である政治家が得ようとするのであればそれはきびしく見れば政治家(statesman)ではなくて政治屋(politician)にすぎない。長期の視点によりやすい自由民主主義(liberal democracy)の競争性や包摂性によるようにして、議会の内や外の反対勢力(opposition)を切り捨てない。公人である政治家が果たすべき説明責任(accountability)をすすんではたす。それが公人である政治家がなすべきことだろう。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『学ぶ意欲の心理学』市川伸一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『まっとう勝負!』橋下徹