アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかと、自分たちで自分たちのことを決める民主主義のやっかいさ―自分たちの非確定性

 アメリカの大統領選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。トランプ大統領が言うように大統領選挙で不正はあったのだろうか。そこには民主主義のしくみがもつむずかしさや矛盾が関わっているかもしれない。

 民主主義は自分たちのことについてを自分たちで決めて行くしくみだとされる。それによって矛盾が引きおこるのがある。また民主主義は自分たちでものごとを決めるしくみだが、それによって自分たちに益になることが決められる保証があるとは言えそうにない。

 親と子の関係でいうと、子にたいして民主主義を当てはめるのであれば、子がすべて自分のことを自分で決めて行く。子が民主主義の仕組みによってものごとを行なっていったとしても、それが子にとって益になるとは限らない。あるていど親が子のことについてを決めたほうが子にとって益になることがある。親が賢明であれば子を外から見ることができるためにより上位の視点に立つことができる。内ではなくて外から見たほうがよりよくわかることがある。

 子が自分で自分のことを決めるよりも、親やほかの誰かに決めてもらったほうが子としては楽だ。自分で判断しないですむ。楽ではあるとしても正しいとは限らないのがあるからそこに気をつけることがいる。他人まかせであったほうが楽ではあるが他人は自分のことをそこまで気にはかけていないことがある。だれしもいちばん関心を持っているのは自分のことだから、自分のことは自分で決めたほうがまちがっていることはあったとしても納得はできやすい。

 民主主義で自分たちで自分たちのことを決めたとしてもそれが自分たちの益にはならないことがあるのは、ナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーが選挙によって選ばれたことを持ち出すことができる。ヒトラーは選挙で選ばれたのがあり、それによってその当時のドイツや広くは世界にとって益になったとは言いがたい。大きな害を引きおこした。

 形式論と実質論に分けて見てみられるとすると、自分たちで自分たちのことを決めてそれが自分たちに益になるかどうかは実質の結果がどうかに当たる。実質の結果が益になるのをまちがいなく保証するものが民主主義のしくみだとは言えそうにない。短期としては自分たちに益になるのだとしても長期で見たら益にはならずに損になることがあり、そこに民主主義のわなの一つがある。短期の視点は持ててもなかなか長期の視点は持ちづらい。

 民主主義はともすると短期の視点によりがちなのがあるが、それにあるていどの歯止めをかけようとするのが立憲主義(憲法主義)だろう。民主主義よりも立憲主義のほうが相対的には長期の視点によりやすいものだ。近代の西洋の普遍の価値による憲法であればそれがみこめる。民主主義にとっては立憲主義は他者の視点に当てはまる。自分の視点だけによるよりも他者の視点をとり入れたほうがより益になることがある。

 いっけんすると民主主義だけによったほうが益になるようであったとしても、それはただたんに短期の利益によっているだけかもしれないから、たとえ効率は悪くはなるのだとしても適正さによるためには立憲主義の他者の視点を十分にとり入れたほうがよいことが中にはある。

 自分たちで自分たちのことを決めるさいに、自分たちの量と質とはどういったものなのか。その自分たちの量と質はかならずしも明らかだとは言えそうにない。それについてを明らかなものだとして自国と他国のあいだにきれいに線を引けるのだとするのが国家主義(nationalism)だ。

 自国と他国とはおたがいに関係によってなりたつ。関係主義では関係の第一次性があるとされていて、関係が先立っている。おたがいに行き来があることから自国と他国とのあいだの分類線は揺らいでいる。そのあいだの分類線には気ままさである恣意(しい)性がある。

 自国と他国とのあいだの分類線に恣意性があることが見られるのは、なぜか日本の国の中で他国であるアメリカのトランプ大統領を強く支持するデモが行なわれていることからもうかがえる。これは改めてみると、たとえばアメリカの国の中で他国である日本の自由民主党安倍晋三前首相を強く支持したり菅義偉首相を強く支持したりするデモがおきるようなものだろう。アメリカで日本の首相や政治家のことを強く支持するデモがおきることは考えづらいが。

 自分たちの質と量がどういったものなのかには恣意性があり、また民主主義では実質の結果が益になるものかどうかの保証を必ずしも持てない。民主主義のしくみで勝ったからといってその勝者が正しいとは言い切れず、力(might)と正しさ(right)を分けて見てみられる。力すなわち多数派が正しいとは言い切れず、多数派の専制におちいってしまうことがしばしばあり、そこから少数派や反対勢力(opposition)が押さえつけられてしまうことがしばしばおきがちだ。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治における相対主義の表現だと言っている。その相対性は、自分たちの質と量に恣意性があることを意味しているものかもしれない。それにくわえてたとえ自分たちが決めたことであったとしても自分たちにとって短期だけではなくて長期として益になる保証は必ずしもない。そこには民主主義がかかえるわながある。大衆迎合主義(populism)におちいることがしばしばある。

 民主主義の相対性は勝った者が勝ちすぎず負けた者が負けすぎずといったようであるのがよい。そう言えるのがあるとすると、勝った者だからといって勝ったことを絶対的に基礎づけたりしたて上げたりしないようにしたい。負けたからといってこてんぱんにやっつけられたとは言い切れず、負けたことを完全に基礎づけたりしたて上げたりしなくてもよいものだろう。勝ったとしてもまちがっていることはあるし、負けたとしても正しいことは少なくない。

 勝ったか負けたかは、少なくともそれが全面として正しかったりまちがっていたりすることを意味しづらい。短期だけではなくて長期で見て自分たちの益になることが実質として決められる保証は必ずしもないのがある。それからすると必ずしも勝ったり負けたりすることに絶対的にこだわらなくてもよいのがあり、そこに強くこだわりすぎてしまうとむしろ民主主義の相対性のよさが失われる。

 勝ちと負けはおたがいに自分たちの中(仲間)だからこそ競争し合うのがあり、そこにおたがいに競争し合う者どうしのあいだの類似性がある。修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論で見てみられるとするとそう見られる。類似性がなくて差異性によっているのであれば自分たちの中ではなくて、自分たちと自分たち以外になる。自分たちの質と量には恣意性があるから、類似性があるとともに差異性があるともいえて、完全な類似性はなりたちづらい。社会の中にいる人たちはたとえ自分たちの中にあるとはいってもいろいろなちがいをもつ。人それぞれによっていろいろな遠近法(perspective)をもっている。

 自分たちの中で競い合って選挙で勝ったり負けたりするのだとしても、勝てば優れていて負ければ劣っているとは言い切れず、負けているほうが優れていることもまたあるだろう。その勝つことと負けることのちがいは相対性によっているものだろう。負けることがなければ勝つこともまたないのだから、関係主義によって見てみられるとすれば関係によってなりたっていて、そのあいだの分類線は揺らいでいる。そんなに大きなちがいはないとすることも見かたによってはできるだろう。質のちがいであるよりは量のていどのちがいにすぎないとも言えないではない。質のちがいは必ずしも量ではかれるものではない。

 参照文献 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考をひらく 分断される世界のなかで』(思考のフロンティア 別冊) 姜尚中(かんさんじゅん) 齋藤純一 杉田敦 高橋哲哉 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太(そうた)