差別の問題をとり上げる動画の広告と、それへの批判の声―日本の国の中には差別はないのだろうか

 差別はよくないことだからそれをなくして行く。そういった内容の動画の広告がナイキ社によってつくられた。これにたいして一部から批判の声がおきている。

 日本の国の中には差別はないのだから、あたかも日本の国の中に差別があるかのように言うのはおかしい。ナイキ社の商品はもう買わないようにする。不買運動を行なう。そういった動きがおきている。そこで言われているように、日本の国の中には差別はないのだから、それがあたかもあるかのようにしているナイキ社の動画の広告の内容はまちがっているのだろうか。

 日本の国や社会の中に差別があるのかどうかを見るさいには、一つにはそのことを客観のこととして見るのとはちがう見かたとして、構築主義(constructionism)で言われる言説として見てみることがなりたつ。そこから、言説による問題のとり上げとして見て行ける。言説によって言及することによって問題が人為として形づくられる。

 差別を問題(problematic)として見て行けるとすると、差別の問題があるのであれば理想から隔たった現実なのをしめす。理想論と現実論に分けて見られるとすると、差別の問題があるのなら理想と現実とが合っていない。そこに隔たりやずれがあることになる。

 もしも日本の国の中に差別がないのならそれは理想のあり方が現実化していることをあらわす。そこまでのあり方になっているのかといえば、日本の国の現実はそれとはほど遠い。理想と現実とのあいだにそうとうな隔たりがあるのはいなめない。きびしく見なすとすればそう見なすことがなりたつ。

 日本の国よりももっとていどがよい国はほかにあるから、世界の中で日本はましな国だとは言い切れず、日本よりももっと理想に近いところはあるだろう。どちらかといえば日本は開かれているよりも閉じたところがあり、外向きであるよりは内向きだ。日本よりももっと開かれた国があるから、そうしたところのほうが日本よりもていどがよい。

 日本の国の中に差別があるかどうかとは別に、それよりもより上位の点から見ることが有益だ。日本の国よりもより上位のものとして世界があり、世界の中に包摂される形でその部分として日本の国がある。日本の国の外である世界に目を向けてみることは、日本の国の中だけに閉じこもることを改めることに役だつ。

 世界の中にはいろいろな差別がいろいろなところでおきているのはたしかだ。その中で日本の国だけが例外として差別がないなどといったことはおよそありえない。それはたんに日本の国を特別なものだと見なす例外主義(exceptionalism)にすぎないものだろう。

 一般論でいうと秩序があるところには差別があるとされるのがあり、日本の国に秩序があるのであればそこには差別があるものだ。日本では秩序への志向が強いのがあり、そのためにそこから差別がおきてくる。それが固定化することになる。それによって日常が安定化するいっぽうで、その反作用として階層(class)の秩序からくる差別の格差が保たれてしまう。一つの階層がよいものだとされれば、そのすぐれたものだとされる上方に置かれる階層にたいして劣ったものだとして下方に置かれる階層がおきてくる。

 上方の階層と下方の階層がある中で、下方の階層はぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ。それによって悪玉化(scapegoat)や排除されることがおきてくる。悪玉化や排除がおきることによって連続していたものが非連続になって分節化されることになり秩序が形づくられる。すべてのものはつながり合っていて連続しているのがあるが、そのままだとものごとの区別がつきづらい。それが非連続になって分節化されることで分類づけが行なわれる。

 経済では一般の等価物である貨幣が排除されることで経済の秩序がなりたつ。商品の範ちゅう(集合)の中から排除されているものが貨幣だ。それがあることによって商品の価値をはかるものさしとしてはたらく。経済に限定されないものとしての広い意味での貨幣はそれが排除されることで秩序がなりたつもとになっている。広い意味での貨幣とは日ごろは社会の中で劣った下のものとしてうとんじられるものであり、中心ではなくて辺境に位置づけられる。辺境人(marginal man)であり魔女などだ。非日常の祭りなどにおいて活躍するのが魔女だ。

 貨幣は暴力を一身にになう。暴力による排除のこん跡をもつ。そのことによってそこに暴力が吸収されることで社会の中に秩序がなりたつ。貨幣となるものをなくしてしまうと暴力を一身にになって吸収してくれるものがなくなるので危険性がおきてくる。貨幣は媒介としてはたらくものなので、その中間の媒介がなくなって無媒介になると直接のむき出しの暴力がまん延するおそれがあるとされる。

 経済の中では貨幣はあればあるほどよいものだ(たくさんあって困ることはない)といったことで中心化されているのはあるが、そのいっぽうでお金は汚いものだといった観念もまたある。近代では貨幣や商売が中心化されているが、前近代ではそれらは辺境の下位に置かれていた。貨幣や商売が中心に出てきて上位に突出してしまうのを抑えこむ。それがとり払われたことで近代のあり方ができ上がったのだとされる。

 貨幣にはそれをなりたたせる絶対の根拠がなく穴が空いている。使われていることによってはじめてそれがなりたっているといった自己循環論法になっている。物語によっているものであり、それが崩壊することになるのが超物価高(hyperinflation)だ。

 広い意味で貨幣として機能するものがあり、たとえば政治では全体主義や独裁主義になっているさいには反対勢力(opposition)がそれに当たる。議会の内や外の反対勢力は排除されることによって貨幣として機能することになる。じっさいに反対者が命を落とすことはめずらしくはない。暗殺されることなどを含む。

 明らさまな全体主義や独裁主義になっているかどうかは置いておくとして、日本ではよく野党や政権に批判的な報道機関にたいしてやっていることが悪いとか駄目だと見なされることがあるが、これは反対勢力が貨幣として働いていることをあらわす。

 人は生まれたときから差別をするのではない。文学者のトニ・モリスン氏はそう言っている。生まれたときから差別主義者な人はいない。そこから成長するにしたがい、社会の中にある観念を自分の中に内面化して行く。社会の中にあるあり方を内面化することで感じ分けや行ない分けや語り分けができるようになって行く。その中で差別をすることがおきてくる。人がもつちがいを差異化して意味づけすることによる。

 理想論としては差別がまったく行なわれないことがのぞましい。それはそうあるべきだといったことだが、現実論としてはそれはむずかしい。どうしても差別のこころがおきてしまうのがあり、そのことをくみ入れるとすると、差別を少しでも減らして行くようにするのが現実的なことだろう。

 日本の国にまったく差別がないとするのは、日本が理想論によるような国だとすることだが、それはたんに日本の国に創造性が欠けているのにすぎない。そう見なすようにしてみたい。

 もしも日本の国に創造性があるのであれば、すでにある日本の国の中にあるさまざまな差別に目を向けていって、それを問題だとして認めて行く。その事実は事実だとして認めて行き、それを少しでも改めるようにして行く。それにくわえて、これまでの日本の国の中で行なわれてきたさまざまな差別をかえりみて行く。とりわけ戦前や戦時中における天皇制は大きな差別を生むもとになったものだ。

 日本の国に創造性が欠けてしまっているのは、理想論のあり方がそのままいまの日本の国なのだといったようにしていることによる。日本の国にとって都合が悪いことは、日本の国にとって都合がよいように見なす。そうすることによって理想論と現実論とのあいだの隔たりやみぞが放ったらかしにされていて、その隔たりやみぞが埋まるのではなくてかえって開いてしまう。事実は事実だとして認めようとしないとそうなってしまうことがおきてくるから、そうならないようにするために開かれたあり方による知の誠実さを持ちたいものである。

 参照文献 『「他者」の起源(the origin of others) ノーベル賞作家のハーバード連続講演録』トニ・モリスン 荒このみ訳 『社会問題の社会学赤川学 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『貨幣とは何だろうか』今村仁司 『寺山修司の世界』風馬の会編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『考える技術』大前研一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき)