アメリカの大統領選挙でドナルド・トランプ大統領が言っているように不正はあったのだろうか―いくつかの疑問点が浮かぶ

 アメリカの大統領選挙で不正があった。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう言っている。トランプ大統領が言っているように大統領選挙で不正があったのだろうか。ほんとうは民主党ジョー・バイデン氏が勝ったのではなくて、トランプ大統領が言っているようにトランプ大統領が勝ったのだろうか。

 アメリカの大統領選挙がほんとうのところはどうだったのかはよくわからない。だからはっきりとこうだと断定することはできないが、じっさいのところはどうだったのかについてを論理学でいわれる間接証明法によって少しだけ見てみたい。

 論理学でいわれる直接証明法は、無いこと(無かったこと)をじかには証明できないからいわゆる悪魔の証明といったことになる。そこで持ち出されるのが間接証明法だ。これは背理法や帰謬(きびゅう)法とも言われるものだ。

 間接証明法では何々ならば何々であるの仮定の条件文(if の文)をとってみて、うしろの何々であるのところを否定してみる。うしろの何々であるのところを否定することができれば前の何々ならばのところを撤回させないとならない。論理学の法則である後件否定式を用いたものである。仮定した条件文に矛盾を見いだせれば条件文そのものを否定することがなりたつ。

 条件文のうちで前件は何々ならばのところで、後件は何々であるのところだ。後件否定式のほかに前件肯定式がある。前件肯定式は、何々ならば何々であるの条件文があるさいに前件を肯定する(持ち出す)のならば後件を言わないとならないものだ。前件が後件を含意することをあらわす。

 間接証明法を用いるとすると、直接証明法では何かが無い(無かった)ことをじかには証明できないから、その反対に、あるとする仮定の条件文をとってみる。無いことの反対に、もしも何々があるのであれば何々であるとしてみる。それでうしろの何々であるを否定できれば後件否定式によって何々であればの前件を撤回することがいることになる。そこから条件文に矛盾を見いだすことができれば仮定したことの否定がなりたつ。

 何々があるとする仮定であれば、それが否定されるのだから、無いことが間接に証明される。何々があるとする仮定が否定されなければ、そのままもとの条件文がなりたつ。

 もしもトランプ大統領が言っているように大統領選挙で不正があったのだとすれば、トランプ大統領の言っていることが当たっていることになり、トランプ大統領が言っていることに説得性があったことになる。はたしてトランプ大統領の言うことに説得性があるのかといえばうたがわしさをまぬがれづらい。これまでにトランプ大統領ツイッターのツイートなどで数々のうその情報を流してきているのがある。うその情報を流した数はかなりのものにのぼるのだとされる。それをくみ入れられるとするとトランプ大統領が言っていることをそのままうのみにはできづらい。説得性がないおそれがある。

 大統領は政治家であり、政治家は国民の表象(representation)だ。国民を置き換えたものだ。置き換えられたものなので政治家は国民にたいしてうそをつける。ぴったりと国民と一体のものとして合っているのではなくてそこにはずれがある。そこに気をつけてみることができるだろう。必然として政治家が国民にすべてのものごとについてを正直に語るとは言えず、可能性としてはうそをつく。よかれ悪しかれそれがおきてくる。

 大統領選挙の不正についてでやや引っかかりをおぼえるのは、なぜ不正をしなければならないのかだ。かならずしも明らかに法に反するような不正をしなくてもよいのがあるのではないだろうか。選挙で自分たちに有利になるようにするための手段としてはいろいろなものがあるとすると、その中であえてものすごく危険性が高い手段である明らかに法に反する不正を行なうことに合理性があるとは言い切れそうにない。

 法に反しない中でいろいろな汚い手があるのだとすると、法に反する汚い手を使うのではなくて、法に反しない汚い手を使ったほうが安全だ。そもそも汚い手を使うべきではないといったことがいえるのはあるが、良心を捨ててしまい、法に反しないのであれば汚い手を使ってもよいのだと割り切ってしまえば、わざわざ法に反する汚い手を使わなくても色々にやれることはあるだろう。

 法に反する汚い手はそれがやりづらいように防ぐ策がとられているだろうから、そこをかいくぐるためには労力や費用がかかる。その労力や費用に見あうだけの効果が得られるのかがある。見あうだけの効果が得られないのであればあまり合理性がない。あきらめたほうが合理性があることになり、それよりも法に反しない汚い手で効果があるものを行なうことの合理性が出てくる。

 かりに法に反する不正を行なうのだとしても、それはいったい何のためにやるものなのだろうか。改めて見てみると、かりに法に反する不正をしたとして、それがかんたんにばれてしまうのであれば意味はあまりない。かなりの逆効果にはたらく。聖書か何かの格言の何々すべからずのしゃれで、なんじばれることなかれと言われるのがあるが、ばれてしまったら元も子もない。アメリカの大統領選挙は世界中が注目するものでもあるから、注目度が高いことで不正がばれる危険性はかなり高そうだ。もともとの危険性が高い。

 アメリカの民主党が大統領選挙で不正をしていたのだとすると、それはたんに民主党ジョー・バイデン氏の陣営が悪いことを意味するだけではなくて、民主主義をよしとする民主党の存在理由を自己否定することになる。自分たちの自己同一性(identity)を否定することになる。それにくわえてアメリカの民主主義を否定することにもなり、アメリカの国をおとしめることをあらわす。さらに民主党ジョー・バイデン氏を支持している人たちを否定することになる。せっかく支持してくれている人たちを否定することになり、敵に回すことになるだろう。

 大統領選挙で不正があったのだとすると、選挙そのものの大前提を全否定することになるのがあるから、そうとうに大ごとになってしまう。余波が大きい。いったい何を信じたらよいのかがわからなくなってしまう。ここは最低限でも守られることがいるといったものが大前提だから、それが全否定されることになったら何をよすがにすればよいのだろうか。

 不正についてを少しずらして見てみられるとすると、大統領選挙で不正が行なわれたのかどうかとはちがう文脈として、情報政治の文脈で見てみられる。情報政治の文脈から見られるとすると、トランプ大統領が言っているのとはちがう意味あいにおいてたしかに不正が行なわれたのはあるかもしれない。そこには疑似環境が関わってくる。われわれをとり巻く環境は報道の媒体やウェブなどによって形づくられた二次的なものになっているのはいなめない。触知可能(tangible)な環境であるよりは表象としての環境だ。

 広い意味あいでの不正とは選挙が完ぺきに適正に開かれたかたちで行なわれたとは言いがたいことだ。どうしても効率性によってしまっていて、適正さがないがしろになっているところがある。大衆社会の中で大衆迎合主義(populism)におちいっていて大衆にたいして情報の操作が行なわれる。

 効率性ではなくて適正さによるためには、力(might)ではなくて正しさ(right)によることがいる。じっさいの選挙では力がものを言ってしまうところが大きくて、正しいものではなくて力が強い者が勝ってしまうことがおきてくる。それを広い意味で不正と言うこともできなくはない。

 一か〇かや白か黒かの二分法によって見ることを避けるようにしてみれば、大統領選挙において不正があったのかそれとも無かったのかをはっきりと二つに分けられないのがあるかもしれない。不正があったのか無かったのかのあいだの分類線が揺らいでいる。広い意味では不正があったのだと見なすことがなりたつ。それはトランプ大統領が言っているのとはちがう意味あいにおいてではあるが。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司