日本の国のことがいやなのであれば日本の国から出て行かないとならないのだろうか―社会の中にある個人への独断や偏見を改めるようにしたい

 日本の国がいやなのであれば自分の国に帰れ。日本人ではない人が日本の国に住んでいるのだとして、日本の国がいやなのであれば日本の国から出て行かないとならないのだろうか。日本の国にとどまりつづけていてはいけないのだろうか。このことを個人と社会の点から見てみたい。

 他国から日本の国へ来た人が、日本の国に不満をもつ。それは個人が日本の国に不満をもつことだが、それぞれの個人がもつ満足化の水準の高低はそれぞれの人によってちがう。もしも日本の国にたいしてとんでもなく甘いのであれば、満足化の水準はとんでもなく低いだろう。日本の国がどのようなおかしいことや悪いことやまちがったことをやったとしても甘く見なして許す。

 個人のもつ日本の国にたいする満足化の水準はそれが低ければよいものではないし高ければ悪いとも言えそうにない。満足化の水準が低すぎると日本の国がおかしいことや悪いことやまちがったことをやったとしても甘く見なして許してしまうから、日本の国がまちがった方向に向かってどんどん進んでいってしまうことがおきてくる。歯止めがかからない。

 日本の国民のみんなが日本の国にとんでもなく満足していて、それぞれの個人がもつ満足化の水準がとんでもなく低い。そうであったのが日本の戦前や戦時中だろう。そのことによって日本の国がまちがった方向に向かって行くことの歯止めがかからなかった。欲しがりません勝つまではとか、ぜい沢は敵だといった標語が言われた。そのことの大きなもとには天皇制があった。天皇は生きている神だとされて絶対的に権威化されていた。超越の他者であった天皇によって国民(臣民)は駆動されていた。天皇は日本の国の主権をただ一人だけもっていた。

 個人をとり巻く外の社会に目を向けてみれば、社会の中にまちがった価値観や意識があることによって個人が苦しむことがある。社会の中にあるまちがった独断や偏見によって個人が苦しむ。それを改めるには、個人が日本の国から出て行くのではなくて、日本の社会の中にあるまちがった価値観や意識が変わることが必要だ。社会的排除(social exclusion)が強い社会から社会的包摂(social inclusion)による社会に変わることが求められる。

 温かさと冷たさの温度のちがいを持ち出せるとすると、日本の国の中にいるすべての人が日本の国にたいして完ぺきに温かい思いを抱いているとするのは幻想なのではないだろうか。もしもそういったふうになっているのだとしたらそれはそれで危ない。日本の国にたいしては、温かさだけとか冷たさだけといったように一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れない思いをいだく。両価性(ambivalence)がある。かんたんに割り切ることができない矛盾したありようだ。

 個人の心の中で日本の国にたいして温かい思いをいだこうが冷たい思いをいだこうがそれはそれぞれの個人の自由にまかされていることだろう。温かい思いをいだくとしてもまちがっていることがあるし、冷たい思いをいだくとしても正しいことがある。現象として温かい思いをいだくこともあれば冷たい思いをいだくこともあり、それは突き放してみればただの現象が生じているのにすぎない。

 一つの現象として温かい思いをいだくこともあれば冷たい思いをいだくこともあり、それはどちらであったとしてもそれそのものがすなわち正しいとかすなわちまちがっているのだとは言えそうにない。現象のところだけを見て、その表面のところだけでよいとか悪いとかと見なすのは、その奥にあるところをとり落としてしまう。表面の奥にあるところが肝心なところだろう。

 国家主義(nationalism)であれば、日本の国にたいして温かい思いをいだくべきだとなる。そうはいっても、個人が心の中で日本の国にたいして温かい思いをいだいているのかそれとも冷たい思いをいだいているのかは正確にうかがい知ることができづらい。

 形式と実質で分けて見られるとすると、形式としては日本の国にたいして温かい思いをいだいているようであったとしても、ほんとうの心の中である実質ではどうかはわからない。国家主義では個人にたいして形式を強制することによって実質を支配して同一化させようとするものだ。その支配が完全にできるかといえばそうとはいえないところがあり、最終としては個人の心の中は自由なのはあるから、すべての個人の心の中の実質を支配することはできないかもしれない。

 国家が個人の心の中まで支配しようとするのは近代の中性国家の原則に反することになる。国家はできるだけ国家主義によって個人の心の中に介入しないようにして、個人の思想の自由(freedom of thought)を守る。そこからくるものである表現の自由(free speech)を守る。それでそれぞれの個人を尊重して行く。国家主義によって国家の公を肥大化させるのではなくて、個人の私を充実させるようにして行く。そうしたほうがそれぞれにちがいのある個人の生がよりよいものになって生きて行きやすいようになって行くことがのぞめる。

 参照文献 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『考える技術』大前研一社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正