アメリカのドナルド・トランプ大統領のみならず、一般的にいって政治の上に立つ長はかけがえがないものなのかそれともかけがえがあるものなのか―かけがえがある者としての政治家や政治の指導者

 おまえの代わりなんていくらだっている。そんなふうな題名の本が芸能人の坂上忍氏の本であったのを見かけた。これをアメリカのドナルド・トランプ大統領に見せてあげたらどうだろうか。

 政治の上に立つ長で、この人はかけがえがない人だといったような人はいるのだろうか。そういった人がいるとかえって危険性がおきてくる。なぜかといえば、多元性が損なわれてしまうことになるからだ。多元性が損なわれて一元性になると、独裁主義や専制主義や権威主義となり、政党でいうと一党だけが支配することになる。野党や反対勢力(opposition)があることを許さなくなる。日本の政治はきびしく言えばそれに近くなっている。与党だけが許されて野党や反対勢力が許されないのは日本の戦前や戦時中に見られた。

 自由民主主義(liberal democracy)においては競争性(competition)と包摂性(inclusiveness)があることが必要だ。それらの二つがあることがいるのは、政治の上に立つ長とはいえど、かけがえがないのではなくてかけがえがあることをあらわす。とりかえがきく。そうであるのでなければならない。

 競争性と包摂性とともに、民主主義においては兄弟性によることが大切だ。弱い者である羊どうしの兄弟性だ。強い者であるオオカミがあらわれてオオカミが上に立って権威化されると権威主義におちいる。権威化されたオオカミによって羊たちが食いものにされることがおきてくる。これは歴史における失敗としていく度もおきたことである。日本の過去のオオカミは責任者であったのにもかかわらずまったくといってよいほどに責任をとらなかった。そのもととなったのが日本の天皇制だ。

 何が何でもこの人でなければならないのだとしてしまうと、かけがえがないことになってしまう。本当はかけがえがあるものであるのにすぎないのにも関わらず、かけがえがないものであるかのように見せかけることが通用することになる。

 かけがえのなさは、競争性と包摂性が欠けていることによってなりたつ。それによって人々のもつ満足化の水準がずるずると引き下がって行く。学習性無気力(learned helplessness)のようになって行く。ほんとうはもっと高い満足化の水準をもてるはずなのにもかかわらず、その水準がどんどん引き下がって行き、とるに足りない人なのにもかかわらずあたかもその人がかけがえがないかのように見誤ることがおきてくる。

 大統領選挙でトランプ大統領ジョー・バイデン氏が互いに争い合ったことが意味しているのは、互いにそれほど水準を大きく異にしてはいないことだ。たがいに争い合うことになるのは、それほど大きく水準を異にはしていないことを示す。それが意味していることは、互いにかけがえがないのではなくてかけがえがあることなのではないだろうか。

 争い合う者どうしのどちらも(どちらか)がかけがえがないのではなくてどちらもがかけがえがあるのだから、トランプ大統領は大統領の地位に必要より以上にこだわりつづけないようにして、大統領の地位に恋々(れんれん)としつづけなくてもよいものだろう。それよりも不毛な争い合いをさしあたっては棚上げにして、弁証法の正と反と合がある中で互いの敵対を止揚(しよう aufheben)したほうが合理的なのがある。真相をいますぐに完ぺきに明らかにすることができずそれを明らかにするのに時間がかかるのであれば、いったん棚上げにしてしまい、あえて間(余白)を空けるようにして、あとになって少しずつものごとを明らかにしていったほうがよいことがある。

 参照文献 『政治学川出良枝(かわでよしえ) 谷口将紀(まさき)編 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳