選挙で出た結果がどうかと、選挙で不正が行なわれた(行なわれ方が悪かった)かどうかの関連性

 アメリカの大統領選で現職のドナルド・トランプ大統領が大統領に再選されない。再選されないのだとしたらそれはおかしいことだからその結果を受け入れることをこばむ。トランプ大統領はそうしたことをほのめかしている。

 日本では大阪府大阪都構想住民投票が行なわれているが、もしも都構想が否決されたらそれは無効だ。そういったことがいわれていた。

 選挙の結果が自分の意にそわないものだったさいに、それを受け入れないようにすることはふさわしいことなのだろうか。許容できる範囲の内にあることなのかそれとも外にあることなのだろうか。

 選挙の結果がもしも自分の意にそわないのであれば、選挙で不正が行なわれたのにちがいない。そう見なしてしまうと陰謀理論を持ち出すことになってしまう。そのことを逆(対偶)から見てみられるとすると、選挙で不正が行なわれていないのであれば、選挙の結果が自分の意にそうものだったことになる。

 自分の意にそうことばかりではなくて、自分の意にそわないことが選挙の結果として出ることは少なくはない。だから、たとえ自分の意にそわないことが選挙の結果として出たのだとしても、それだからといって選挙で不正が行なわれたことを必ずしも意味するものではないだろう。不正が行なわれたり、選挙のとちゅうの過程が適正に行なわれなかったりしたと絶対的に結論することはできづらい。

 選挙のあり方(やり方)とその結果を二つに切り分けられるとすると、この二つは固定化して結びついているものではなくて、いくつかに場合分けすることがなりたつ。選挙のあり方がよくても結果が自分の意にそわないことがある。選挙のあり方がよくて結果が自分の意にそうことがある。選挙のあり方が悪くて結果が自分の意にそわなかった。選挙のあり方が悪いが結果は自分の意にそった。

 場合分けをしてみると少なくともこれらのことがありえるから、これらのうちのどれが当てはまるのかはいちがいに言うことはできづらい。選挙の結果が自分の意にそわなくて思わしいものではなかったさいに選挙のあり方がよくないものだったとしてしまうと、場合分けをしたさいの一つのことをとり上げるのにすぎない。ほかのこともまたあるからそれをとり上げることがいる。

 べつの点から見てみられるとすると、選挙で出た結果がいついかなるさいにも正しいとは言い切れないから、結果と正しさを必ずしも固定化して結びつけることはいらないものだろう。あくまでも結果は結果として、それとは別に正しさがあるとしてもよいのがあるから、結果を受け入れつつ、それとは別に正しさもまたあるとすることはできないことではない。

 選挙でまちがった結果が出ることは、歴史においてはナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーがドイツの国の長として選ばれたのがあげられる。ナチス・ドイツに見られるように選挙では悪いものが選ばれることがあるし、結果がいつも正しいものだとはかぎらないから、結果はいついかなるさいにも正しいものだとか、いついかなるさいにも正しいものでなければならないとまでは言えそうにない。

 一か〇かや白か黒かの二分法におちいるのを避けられるとすると、かりに選挙においてとんでもない不正が行なわれたとすればそれは問題外だが、それはわきに置いておけるとして、選挙の結果は基本としてていどの正しさにすぎないものだろう。まったく疑いを入れないほどのとんでもなく正しい結果が出るものだとは言えそうにない。いわばせいぜいが中間的な正しさが出るくらいのものであり、絶対の正しさではなくて相対的なものにとどまっている。

 選挙のあり方が十分によいものだったのかどうかについては、その点を現実主義で見られるとすると、現実にはいろいろな制約がつきまとう。理想主義からすれば、まったく現実の制約がないくらいに理想的な環境や状況のもとで選挙が行なわれることがのぞましいが、それは現実にはのぞみづらい。

 日本の選挙のあり方にはさまざまな問題点があげられていて、日本の国がつくられた明治の時代の古い発想がいまだに引きつづいているとされる。古い発想がいまだに引きつづいているので、公職選挙法がいまの時代にぴったりと合っていないでずれている。戦前や戦時中はお上が国民(臣民)ににらみをきかせて国家の公が肥大化していて個人の私がおしつぶされていたが、そのときの名残りがいまだに引きつづいている。国家主義の国家の公が肥大化して国家がのさばるあり方が十分に改められていない。

 候補者は選挙カーで自分の名前を連呼するといったひどくていどの低い活動が行なわれつづけている。日本の選挙のあり方をきびしく見られるとすれば理想のあり方にはほど遠いものだろう。それを甘く見なせるとすれば、いろいろな制約があるからしかたがない面も一部においてはあるだろう。理想の大局の最適にはなっていないが、現実においては局所の最適化になっていて、きびしくみれば局所の最適化のわなにはまっている。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治の相対主義の表現だと言っているという。絶対的に二分法によって一か〇かや白か黒かをその時点においてきっちりと完全に明らかにするものだとは言えそうにない。選挙の結果が自分の意にそうような思わしいものだったからその結果は絶対に正しいものだとしたて上げたり基礎づけたりできるものではないだろう。それとおなじように、選挙の結果が自分の意にそわないような思わしくないものだったからといってその結果は絶対にまちがったものだとしたて上げたり基礎づけたりできるとはかぎりそうにない。

 参照文献 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房現代思想を読む事典』今村仁司編 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)