与党である自由民主党による行政の改革における隠れたさまざまな聖域や禁忌の中の一つに元号の使用がある

 行政の改革に聖域や禁忌はない。行政の改革をになう政権の大臣はそう言っていた。もしも聖域や禁忌がないのであれば、日本の政治や社会の中で元号を使うことをやめたらどうだろう。元号ではなくて西暦を使うことを標準にするようにする。

 日本の伝統だからとして元号を使うことにいまの与党である自由民主党の政権は力を入れているが、これだと元号と西暦の二重基準になり、合理性や効率性があるとは言えそうにない。元号は日本の国内だけでしか通じづらいものだ。元号だけが使ってあると西暦が知りたいときにそれがいつなのかがわからない。

 元号を使うのをやめて西暦に標準化したほうがよいと言うと、日本の伝統をよしとする右派や保守の人たちからきびしい目で見られてしまうかもしれないが、元号改元の仕組みは日本で独自につくられたものではないために、必ずしも日本の伝統とは言えそうにない。

 日本の伝統と言われているものの中には、古くからのものではなくて比較的に新しいものが少なくなく、ほんとうに伝統と言えるかが定かではなく不たしかなものが色々にある。伝統とされているものだからといってそれに一義的に価値があるかは定かではない。

 日本の伝統とされているからといってそれがほんとうに日本の伝統だとはかぎらないのがあるから、それを盲目的にありがたがることは必ずしもいらないことだろう。もっとつっこんで言えば、伝統についてだけではなくて、日本の国だからといってそれだけで価値があるとは言えず、日本の国(または日本人)とは何かは完全に自明なことだとは言えないのがある。

 日本の国や日本人とは何かが完全に自明だとは言い切れそうにないのは、人それぞれによってそれらについて思い浮かべることがちがってくるからである。人それぞれで思い浮かべることがばらばらで、必ずしも共通点がなく、相違点がいろいろにあることがある。

 人それぞれで思い浮かべることにちがいがおきてくることになるのは日本の国や日本人の記号が抽象的なものであるためだ。抽象性が高くて触知可能(tangible)ではないので、これが日本の国そのものだとか、これが日本人そのものだとは具体としてさし示しづらく、あくまでも役割化や象徴化されたものでしかない。ハトは平和の象徴だといったような。国にかかわる象徴としては感情の象徴(ミランダ miranda)や知の象徴(クレデンダ credenda)が用いられる。相対的な抽象性のちがいではあるが、一つの具体の地域に根ざした郷土や郷土人から大きく一線をこえて飛躍したものが日本の国や日本人だ。

 元号改元の仕組みはもともと中国にあったものだとされる。中国の儒教で革命に似せたことを人為で引きおこすものだった。ほんとうに革命がおきてしまうとまずいので、人為で革命に似たことを定期的に引きおこす。それが定めた元号を改める改元だという。中国における政治の権力をになう体制は保守であり、革命をきらうがために、ほんとうに革命がおきてしまってはまずいことから、それに似せたことを人為で行なうようにした。

 日本では明治の時代になって中国からとり入れた元号改元の仕組みをとることにして、天皇の一世(一代)が一つの元号とされた。天皇になってから亡くなるまで天皇の位に属しつづけることが決められて、天皇にだけ主権があること(天皇主権)が憲法によって決められた。元号改元の仕組みはもともとは中国の儒教朱子学から来ているものだし、日本でそれをとり入れたのは明治の時代になってからだから、日本が独自につくった古くからの伝統だとは言えそうにない。

 自民党がやっていることとは逆に、元号ではなくて西暦を使うことに標準化したほうが合理的になることが見こめる。あくまでも合理性をよしとするのならそうしたほうがよいのがあり、それをすすめたい。

 文学者の丸谷才一氏は西暦の二〇〇〇年のときに元号改元して元号を二千と定める案をどこかで言っていた。元号が二千となっていれば、二千元年、二千一年、と西暦と合うようになるので二重基準にならずに合理的だ。

 自民党はたとえ非合理や非効率であったとしても日本の伝統だからとして元号を使うことに力を入れて行くことを変えないだろう。そこは自民党の中にある隠れたさまざまな聖域や禁忌の一つになっている。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『新版 主権者はきみだ 憲法のわかる五〇話』森英樹 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『記号論』吉田夏彦 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき)