元首相の死を弔うことの求めについてを、IMV 分析で見てみたい

 中曽根康弘元首相に弔いの意を形として示す。それを与党である自由民主党の政権がさまざまな司法や教育の機関に上から強いている。このことについて、どのように見なすことができるだろうか。それについてを学者の西成活裕(にしなりかつひろ)氏による IMV 分析によって見てみたい。それによって見えてくるのは、政権が国家主義(nationalism)によって社会の中を分断しようとする思わくだ。

 自民党菅義偉首相による政権が、ただたんに中曽根元首相に弔いの意を形として示すことをさまざまな司法や教育の機関に求めているだけだとは言えそうにない。ただ純粋にそれを求めているのではなく、むしろそれは二次的なものにすぎず、政権に服従するのかそれとも抵抗するのかを司法や教育の機関にたいして試している。

 政権は社会の中を分断する思わくをもつ。おもて向きには弔いの意を形として示すことを求めているが、これは伝達情報(message)であり、政権の意図(intention)はまた別なところにある。その意図を読みとるのだとすると、そこには国家主義が見てとれる。そうした見解(view)をもてる。

 政権は国家主義によって社会の中を分断しようとしているので、政権に服従する者はとり立てて、逆らう者はわきに追いやって行く。そうしたあつかいをしようとしている。これは戦前や戦時中に見られたものである。戦争をうながす行動である。日本の国家に服従してよしとする者は厚くもてなして、逆らう者にはきびしくあつかう。そのあいだに分断線を引く。国家をものさしにして賞罰(サンクション sanction)に差をつける。

 もしも政権が弔いの意を形として示すことを司法や教育の機関に求めるのだとすれば、それは全か無かがふさわしいのではないだろうか。すべての司法や教育の機関がそれを示すか、それともどこもそれをやらないかである。客観の必要性と正当性があるのならすべてがやり、それがないのならすべてがやらない。そういうことであれば社会の中に分断がおきづらい。もともと日本には西洋のような主体によるはっきりとした意志にもとづく選択の文化があまりない。それよりもどちらかといえば空気や和の文化だ。

 全か無かではなくて、あくまでも自由な判断に任せる形をとり判断を迫っているところに政権の悪質さがある。自由な判断に任せるのだとその判断はうわべでは自主的なものに見えるが、じっさいは政権によって動かされてしまっている。

 こちらの判断を選択したとしてもあちらの判断を選択したとしても、いずれにしてもまずさがおきてくる。学者のグレゴリー・ベイトソン氏が言うところの二重拘束(ダブル・バインド double bind)が引きおこる。それはなぜなのかといえば政権の言っていることややっていることがおかしいからだ。そこにもとがある。そうであるのにもかかわらず、政権はあくまでも悪くはなくて、おのおので勝手に自由に判断をした(とうわべでは見える)司法や教育の機関のせいにしようとしている。

 司法や教育の機関がいずれの選択をしても二重拘束のまずさがおきてきてしまうのは、修辞学でいわれる先決問題要求を政権が果たしていないことがもとだ。まず先決に片づけることがいる問題が放ったらかしになっていて、政権が説明や立証や挙証の責任を質と量ともに十分に果たそうとしていないために、ほかのところに(ほんとうなら負うことがいらない無駄な)負担が一方的に押しつけられる形になっている。自由主義(liberalism)が損なわれていて、国家主義が強まっているために、必要より以上のよけいな負担が国家から一方的に押しつけられることになる。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫