政権が引きおこした日本学術会議の問題をもめごと(紛争)として見てみたい―もめごとにおける主体と手段と争点

 日本学術会議にたいして、政権が自分たちの気に食わない学者を外したことについては、人それぞれによって色々な見なし方がなりたつものだろう。そのことについてを一つのもめごと(紛争)だと見なせるのだとすると、どういった見なし方ができるだろうか。

 一つのもめごとだと見なせるのだとすると、やるべきこととしてあげられるのは争点の明確化とその解消ではないだろうか。それをうら返せば、争点の不明確化とその解消の不実行は、もめごとをきちんと片づけることにはなりそうにない。あとにしこりが残ったり禍根(かこん)が残ったりしてしまう。緊張(テンション)が引きつづく。

 政権がやろうとしていることは、もめごとをきちんと片づけることではなくて、それをうやむやにしてごまかすことである。もめごとの主体の一方にあたるのが政権だが、その政権が用いる手段として、権力である力の行使をしている。これはいっけんするととくにまずいことはないようにとらえられるかもしれないが、力(might)にたよるのは、必ずしも正しい(right)ことを意味するものではないだろう。まちがっているからこそ力にたよることはしばしばある。

 もめごとがおきていて、それを何とか片づけて行くためには、強者が力を頼りにして力による手段を行使することは適したことだとは言えそうにない。そうするのではなくて、あくまでも争点の明確化とその解消をなすようにして行く。そのためには、弱者や少数者の声をすくい上げるようにして、弱者や少数者を承認して行くようにする。

 もめごとがおきている中で、一方の主体が政権であり、他方の主体が学者の会にあたる。このうちで、どちらの主体が強者であり、どちらが弱者であるかといえば、政権は支配の力をもっていて、暴力装置をうしろだてにしているのだから、政権が強者だ。学者の会はあくまでも物理の力ではなく文化(抽象)の力でやって行くしかないため、政権とぶつかり合うことになったとすると、国家の公をしのぐほどの力をもっているとは言いがたく、非力さをもつから、弱者にあたるといえるだろう。

 主体が強いか弱かは相対的なちがいだが、国家と非国家の主体がいるとして、国家の公が肥大化していればいるほど国家の公のもつ力は強まり、非国家の主体は弱まる。いまは日本の社会が保守化していて、国家主義がおきているので、国家の公が肥大化しているために、国家の公が強まっていて、そのいっぽうで非国家の主体は弱まらざるをえない。

 国家の公は暴力装置をかかえていて、国家装置である自衛隊や警察の組織をしたがえている。そのほかに国家のイデオロギー装置があり、大手の報道機関などがそれにあたるが、時の政治権力の顔色をうかがってそんたくをして空気を読むことがまん延している。権力の奴隷やたいこ持ちになり下がっていることが多い。

 国家装置である政治警察は国家の公(時の政治権力)の意にしたがい、国民のことを監視していて、個人の私の自由をさまたげている。その中で非国家の主体が国家の公に抗うのはたいへんなことだ。国家の公に目をつけられているほど圧が強くかかるのでたいへんさは大きい。国家の公は自分たちの虚偽意識を保つのに都合の悪い非国家の主体をじゃまなものだと見なして排除する暴力をふるう。国家の公の排除の暴力にたいして、非国家の主体がそれに打ち勝つのははなはだしく困難だ。

 国家の公にすなおにしたがい、国家からの呼びかけにおとなしく従っていたほうが楽だが、それだと国家にたいする自発の服従の主体が形づくられることになる。これは戦前や戦時中の日本に多く見られた。国家の公は国民の心(脳)を支配することを行ない、教育勅語などがその道具として用いられた。いざとなったら国民は天皇のために自分の命をいさぎよく捨てよとされて、その教えが心(脳)に植えつけられた。

 戦前や戦時中の日本では天皇を中心とする国体にもっとも大きな価値が置かれて、個人の一人ひとりの人格は価値をもたないものだとされた。とりわけ戦時中においては個人の私の人格の権利などとんでもないことだった。いかに天皇を中心とする国体を守り抜くかがとられて、個人の私の命の質はどうでもよいことだった。個人は徹底して数量(員数)に還元された。個人の私の人格の権利が日本の社会では軽んじられることが多いために、労働においては滅私奉公のようになり、労働者の個人の人格の権利がないがしろにされやすく、個人の私よりも集団への帰属(membership)に重きが置かれやすい。学習性無気力(learned helplessness)におちいらされることがある。

 強い主体と弱い主体によるもめごとがあるとして、強いほうではなくて弱い主体のほうを承認するようにして、それを支えて行く。二つの主体のうちでどちらが正しいのかとなると、それを一か〇かや白か黒かですっぱりと割り切ることはできそうにない。

 一か〇かや白か黒かでは割り切りづらいのがあり、強い主体が言っていることややっていることが最終の正しい結論だとは言いがたい。強い主体が言っていることややっていることがどこからどう見てもまちがいなく正しいとは言い切れそうにない。弱い主体はどうかといえば、そこに完全な理があるとは言い切れないにしても、一定より以上の理があることがある。どちらかが完全に正しくてどちらかが完全にまちがっているとは言い切れないものだろう。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『神と国家と人間と』長尾龍一 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『考える技術』大前研一 『警察はなぜあるのか 行政機関と私たち』原野翹(あきら) 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん)