二者択一で主と副に分けるようにして、日本学術会議への政権のまちがった行動を見てみたい

 政権が自分たちの気に食わない学者を日本学術会議からはずした。このことがとり沙汰されている。これを二者択一に分ける形によって見てみたい。主(核)と本と、副と末に分けてみたい。

 二者択一によって、主と本や、副と末との二つに分けるようにすると、どれが主にあたり、どれが副にあたるのかがわかりやすい。核となるところがどこかをとり上げやすい。

 中国の思想家の毛沢東は、主の矛盾と副の矛盾を分けるようにすることを説いている。その中で主の矛盾を認知することをすすめている。主と副とを取りちがえないようにする。この二つのちがいはあくまでも相対的なものにとどまり、主が副に転じたり、副が主に転じたりすることがあり、色々に変わって行く。

 日本学術会議のことでは、何が主にあたり、何が副にあたるだろうか。いろいろに見られるのはあるだろうが、主にあたるのは、自由民主党菅義偉首相や、その前の安倍晋三首相が、会の人事のこれまでの慣習を破ったことだ。そこが核にあたる。

 副にあたるのは、日本学術会議がよい会なのか悪い会なのかや、そこに属する学者がよい学者なのか悪い学者なのかだ。また、学問や学者に税金をかけるのがふさわしいのかや、理科系は置いておくとして、文科系の学問や学者に税金をかけることはいることなのかそれとも無駄なことなのかだ。これらのことはもともとの主や核心となることだとは言えそうにない。

 二者択一によって主と副を分けたさいに、主だったものが見えづらくなっていて、副にあたるものが主としてとり上げられている。主は主で、副は副となっていればわかりやすいが、そうではなくて、主をさしおいて副のほうが重みをもつような見かたがとられている。主と副が混ざり合っていてごちゃごちゃになっている。ついでにこれもとか、ついでにあれもといったことで、いろいろな副がとられることになり、それが主のように見なされることで、政権にとって都合がよくなっている。

 もともとの主と副に立ち返るようにして、どれが主でどれが副にあたるのかを分けて見たほうが、いろいろなことをごちゃ混ぜにしてしまうのを防げる。主と副がある中で、とりあえず副はわきに置いておいて、主だけをとり上げるようにして、そこを片づけて行く。主を片づけないままに、副を大きくとり上げてしまうと、何が主だったのかが忘却されてしまう。

 学問や学者に税金をかけるのがいるのかや、それが無駄なのかが言われていて、とりわけ文科系の学問や学者についてきびしい目が向けられている。それについては、新自由主義の市場原理の不利益分配政治が行なわれることにつながって行く。

 経済がうまく行っていたときには利益分配の政治ができたので、いろいろなところに利益を分配して税金をかけることができた。学問や学者に税金をかけることがそこまでとがめられなかった。それがいまではそのゆとりがなくなっていて、新自由主義による不利益分配の政治が行なわれるようになっている。

 不利益分配の政治では、税金をかけるか、それともかけないかの争いが行なわれる。何に税金をかけて、何に税金をかけないようにするか。その争いだ。不利益を自分ではない他に押しつけて行く。だれしもが自分が不利益をこうむりたくはないから、それを他に押しつける。だれしもが自分が得ている利益を手ばなしたくはない。そこで、自分ではなくて、ほかの何かが悪いのだ、となって行く。自分ではない何かを悪いものだとして標的にする。

 不利益分配の政治では、国の財源が足りないのだから、これには税金をかけるべきではないとされるものがおきてくる。利益分配では、ゆとりがあったために、税金をかけて行く肯定によるが、その逆に、不利益分配では、税金をかけない否定によっている。いろいろなものに税金をかけていって肯定することができづらい。国の財源のゆとりがないことから、何に税金をかけないか(かけるべきではないか)の否定による。

 利益分配と不利益分配では、おなじ日本の国の中であっても、その空間のありようがちがっている。時間の地点がちがっている。そのことによって、空間や時間のありようのいかん(ちがい)によって、学問や学者に税金をかけることがよしとされたり、またはとがめられるようになったりする。寛容さがもたれたり、きびしく見なされたりする。転換点がおきることによって、問題とされなかったり問題とされたりするが、このさいの問題とは構築主義によるものだ。

 構築主義における問題とは、客観であるよりも主観によっていて、これは問題だとか、いや問題ではない、といった言論によって形づくられる。あることにたいしてどういう意味づけをするかによって、それが問題になったり問題にならなかったりすることになる。問題の有か無かの分類づけのしかたが人それぞれによってちがう。

 日本の国の空間や時間のありようが変わり、これまでのようにゆとりがなくなったから、利益分配から不利益分配が行なわれることにならざるをえない。それを避けづらい。そのことによって、学問や学者に税金をかけることに寛容だったのが、きびしい目で見られるようになる。それらに税金をかけないようにすることがふさわしいことだと言えるのだろうか。そこに欠けてしまっているのは原理原則によってものごとをなして行くことではないだろうか。

 原理原則が欠けていることによって、あるときには学問や学者に税金をかけることに寛容さが持たれるが、あるときにはきびしい目で見られてしまう。利益分配から不利益分配へといたずらに流されてしまっている。流されないようにするためには、原理原則に照らし合わせるようにして、根源からさかのぼってとらえて行くようにして、いまの時点だけの表面だけを見てものごとを進めて行くのを少しでも防ぎたい。

 税金をかけるべきものと、かけるべきではないものとは、分類づけによっているものであり、そこには主観の解釈が入りこまざるをえない。まったくもって客観とは言いづらく、主観による意味づけがとられているものだろう。その意味づけがまったくもって正しいとは言えないことがあるから、そこを改めて見直すことはまったく益にならないことだとは言えそうにない。

 いっけんすると文科系の学問や学者には税金をかけるのにふさわしいようには見えづらいのだとしても、そのさいにとられているとらえ方が大ざっぱなものになってしまっているきらいがある。ひと口に文科系といっても、その範ちゅうにはいろいろなものがあるし、その中の価値にはいろいろなものがある。

 範ちゅうの中に含まれているその中の一つのものをとり上げるのにしても、いろいろな面をもっているものだろうから、その中のたった一つの面だけをもってして決めつけるのは早まったものであるおそれがある。いろいろな文脈を持っているのだとすると、それらのいろいろな文脈をできるだけていねいにとり上げて行くことがあったほうがうっかりとしたとり落としが少ない。じっくり見て行くことができるのであれば、できるだけそうして見ていったほうが、より理解は深まって行く。

 役に立つことには税金をかけて、役に立たないことには税金をかけない。これは新自由主義の不利益分配ではたやすく割り切りやすいことだろう。それらをかんたんに割り切ってしまうのだと、あまりにもいさぎよすぎるところがある。もうちょっとねばるようにして、役に立つとされることのもつプラスとマイナスや、役に立たないとされることのプラスとマイナスを見て行くことがなりたつ。

 プラスがマイナスになり、マイナスがプラスに転じることにも目を向けなければならない。プラスだったものがマイナスに転じることはあり、たとえば歴史では自国を手ばなしでよしとする愛国の歴史観はたとえ一時的にはプラスだと見なされてもあとになってマイナスだったとなるおそれがそれなり以上に高い。後世の人がマイナスだと見なす。たとえプラスになったとしても短期のプラスにしかなりづらい。

 マイナスがプラスに転じるのは、文科系の学問や学者の性格の一つだと見られるのがあるかもしれない。マイナスであることによってプラスに転じる。毒であるものが、そうであることによって薬になる。毒なら毒だとして、マイナスはマイナスだと固定化してしまうと、そのよさがわかりづらい。単純なものだとは言いがたく、それは近代の時代の性格が単純なものではないことに通じているかもしれない。とりわけ後期の近代では、大きな物語がなりたちづらくなっている。ただ一つだけの最高価値が没落していて、価値の多神教になっている。

 役に立つとされるものと役に立たないとされるもののあいだの分類線は揺らいでいるのがあり、あんがいはっきりと割り切ることができづらいのがある。新自由主義の不利益分配でたった一つのものさしによってすっぱりとものごとを一か〇かや白か黒かに分けられないのがあるものだろう。

 役に立たないとされるものがなければ役に立つとされるものはないのだから、関係主義によって見てみられるとすると、役に立たないとされるもののほうがより根源の本質にあたるものだともとらえられる。関係主義では関係の第一次性がとられて、関係の網の目の点としてさまざまなものがあるのだとされる。

 関係によって分節化されることによって、あるものがあったり別なものがあったりすることがなりたつ。いろいろな分節化のしかたができるのがあり、地球でいえば、どこに線を引いて分節化するのかによって、全体における部分ができ上がる。他の部分と関係し合う一つの部分として日本の国があったりアメリカの国があったりする。全体と部分は相対的なものであり、日本の国は国としては一つの全体だが、世界においては一つの部分であり、世界つまり地球は宇宙の一つの部分だ。宇宙の中では地球は数ある星々の中の一つの星(惑星)である。全体と部分の相対性は哲学者のアーサー・ケストラー氏がホロン(holon)の概念によって説いている。

 参照文献 『古典の扉 第二集』杉本秀太郎(すぎもとひでたろう)他 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『構築主義を再構築する』赤川学