政治の言説のゆるゆるさと、国の財政の規律のゆるゆるさ―しまりがなくたるんでいる

 政治の言説がゆるゆるになっている。国の財政の規律もゆるゆるになっている。この二つのあいだには共通点があるかもしれない。

 政治の言説がゆるゆるになっていることをどのように見なすことができるだろうか。それを表現の自由だと見なすこともできるかもしれない。それとともに、かなり危ない状況だと言うこともできるだろう。

 黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言う。そうしたものが政治の言説がゆるゆるになっているありさまだ。政治においていちばん気をつけて警戒しなければならないのは、政治の言説がゆるゆるになることだ。これがゆるゆるになっていると、何でも許されるようになり、神話がまかり通る。戦争は平和であり、平和は戦争だとなる。隷属は自由であり、自由は隷属だとなる。真理は虚偽であり、虚偽は真理だとされる。

 言っていることがたとえゆるゆるであったとしてもよい。きちんとした結果を出すような行動さえできていればよい。そう見なす見なし方もあるだろう。言説よりも行動を重んじるものだが、政治において言説がゆるゆるになっていると、政治の行動もまたゆるゆるになりやすいものだろう。

 ゆるゆるな言説は、ゆるゆるな現実の認識をもっていることを基本としてはあらわす(例外はあるかもしれない)。現実の見かたがゆるゆるになっていると、行動もまたゆるゆるになりがちだ。そこで欠けることになるのは現実の複雑性にたいする精緻な認識だ。現実の複雑性にたいする精緻な認識をもつには、一定より以上の語いの知識(量)と、一定より以上の語いの運用能力(質)が欠かせない。

 ナチス・ドイツなどでは、複雑な現実を単純に割り切ってしまうために、味方か敵かや白か黒かといった、ごく少ない語いの量とごく単純で雑な語いの用い方によって、まちがった国の行動をおし進める力にしていった。そこでとられていたのは純粋で完全な正しさとしての誤ることのない教義(ドグマ dogma)や教条である。

 教義には穴が空いているがそこにフタがされていて、フタがはがされれば、教義が虚偽であることがあばかれる。悪い教義についてはフタをはがして教義が虚偽であることを明らかにすることがいる。中には必要悪としてのさしあたっての教義もあるだろうから、それについては下の穴を認識しつつフタをかぶせておくことが行なわれる。必要悪のさしあたっての教義とは、抽象的(形式的)な正義や法などで、これらがないとすると、何が正しいのかがまったくわからなくなってしまう。善悪の彼岸といったふうになりかねない。人間の欲動は善悪の彼岸にあるのだとされる。

 人間の欲動は精神分析学者のジグムンド・フロイト氏の言うリビドーにあたるとされる。快楽または効用(満足)を得ようとする。まだ人間の分別の知がはたらく前のものだとされる。原初の欲動をそのままむき出しにして社会の中で行動をすると許されないことが多い。

 正義や法を必要悪と言ってしまうと悪いかもしれないが、思想家のヴァルター・ベンヤミン氏は、法は暴力だとしている。法を措定(そてい)する暴力と、法を維持する暴力があるという。こうするべきだとする命令や当為(ゾルレン)の言明が法なので、そこに暴力性があるのかもしれない。よしとするものと駄目だとするもののあいだに線を引く。法の根拠となる法をさかのぼって行くと虚構に行きあたるのだという。正義では、それがあまりに強く打ち出されすぎると、悪に転じることがあり、大文字の正義の危険性はいなめない。

 戦前や戦時中の日本では、政治の言説がゆるゆるだったために、神風の神話がまかり通った。ゆるゆるだったために、政治においていちばん気をつけて警戒しないとならないものである、政治の権力者が嘘を言うことが大手を振って許されていた。政治の権力者が嘘を言いたいほうだいで、下の者つまり国民(臣民)はそれに自発として服従した。同調主義や順応主義がとられて社会の中の空気を読まされた。政治の権力者が言うことを疑うことが行なわれず、疑うことが許されなかった。

 国の財政では、財政の規律がゆるゆるになっていて、たがが外れてしまっている。ほんらい借金をすることはいけないことだが、そのいけなさがなくなっていて、借金をすることが常態化してしまっている。それで何とかなるだろうといった神話がとられているように見える。

 国の財政の規律がゆるゆるなのは、政治の言説がゆるゆるなのと関わっているのではないだろうか。黒いものを白いと言い、白いものを黒いと言う。借金は資産だと言い、資産は借金だと言う。

 国の財政についてはいろいろな説があるから、国の借金がすなわちいけないものなのだと絶対的に決めつけてしまってはいけないかもしれない。それはあるものの、二重基準(ダブル・スタンダード double standard)におちいるのは防ぐべきだろう。国の借金がよいことまたは資産であるのだとすると、その下の企業や家計の借金はなぜいけないことだとされているのかの整合性がとりづらい。

 もともとお金には穴が空いていて、しっかりとした根拠が欠けているために、お金はつまりお金なのだといった根拠が不在の自己循環論法になっている。哲学でいわれる言語ゲームとおなじで、活用されているからそれがそれとしてなりたっている。それをお金だと見なして社会の中で通用しているのは、そうした物語によっているためであり、その物語が破綻するおそれはまったくないことではない。物語が破綻するのが超物価高(hyperinflation)だ。ゲームの中において物語が通用して信用されているうち(そのかぎりにおいて)は超物価高はおきないだろう。

 政治の言説がゆるゆるになっているのを少しでも立て直すようにしたい。そのためには、政治の権力者が嘘を言うことに十分に気をつけて警戒するようにしたい。大手の報道機関にはしっかりとした権力の監視をのぞみたい。いまのところ大手の報道機関の、とりわけテレビの世界は、国家のイデオロギー装置に思いきりなり下がっていて、政治の権力者のことをそんたくしすぎている。

 ゆるゆるさを少しでも改めるようにするためには、修辞学でいわれる基本の形式の虚偽とされる、多義またはあいまいさの虚偽におちいりすぎないようにすることがあげられる。多義またはあいまいになりすぎないようにして、具体として何をさし示しているのかを限定化しておたがいに前提条件のずれをすり合わせて行く。ものごとのすじ道を通すようにして行く。ゆるゆるさを少しでも改めるにはそのようなことを地道にやって行くことがのぞまれる。

 参照文献 『ゴシップ的日本語論』丸谷才一 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ) 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士(まさし) 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき) 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『現代思想を読む事典』今村仁司