政治家は上で、学者は下なのだろうか―創造性の点で比べてみたい

 政治家が学者を制御するべきなのだろうか。学者には税金が使われているのだとすると、国民の役に立つようにするべきであり、そのためには政治家が学者を制御して行く。もしくは、税金を投じないで学者の会を民営化する。そうした声が言われているが、そうしたことをするのはふさわしいことなのだろうか。その点についてを創造性の点から見てみたい。

 学者や学者の会に税金が使われているのなら、国民の民意を反映させるべきであり、そのためには政治家が学者を制御するべきだとするのは、そこまでふさわしいことだとは言い切れそうにない。そこで目を向けられるのは、色々にある中で、創造性があるかどうかをあげられる。

 政治家と学者を比べて見られるとすると、政治家よりも学者のほうが創造性が高いことは多いだろう。学者をしのぐほどの創造性を政治家がもっていることはほとんどなく、たいていは政治家は創造性が低い。逆にいえば、創造性が低いから政治家がつとまるのであり、政治の仕事ができる。そういってしまうと政治家のことを低く見すぎかもしれないが、政治家の仕事にはそこまで創造性はなく、現実的なことが求められる。

 政治家の仕事にはそこまでの創造性は求められない。それよりもむしろ現実性が求められる。現実性とは、保守性といってもよいものであり、革新的なものを打ち出しづらい。革新性のあることを打ち出したらまわりから浮いてしまうし、多数派にはなりづらい。多数派は保守性をもつことが多く、たとえば親と子でいえば、親は保守的なことが多いのになぞらえられる。子どもは保守的な親にしたがわずに反発をすることがある。

 政治家が勝って多数派になると、自分の足元の土台を崩すことが行なわれなくなりやすい。勝った政治家は、権力を牛耳るようになり、勝ったもととなる自分の足元の土台を温存してしまう。それによって日本の政治では世襲の政治家が多く出ることになってくる。勝つことのもとになったことを改革すると、自分が不利になることから、それを行なうことはほとんどのぞめない。保守性が改まることがなく固定化することになる。

 創造性が高すぎるとまわりから浮いてしまい、孤立してしまうから、政治家の仕事はつとまりづらい。その社会の中で同化することがいるものであり、異化することはできづらい。政治家は異端にはなりづらい。なので、政治家はほんとうの意味での画期となるような革新をなすことはあまりないものだろう。

 相対的に異端になりやすいのが学者だと言えるのがあり、現実から距離をとることができやすい。政治家の仕事のように、必ずしも現実性を強く求められないのがあり、現実から飛躍することがあるていど許される。そのことによって現実を相対化することができて、現実の問題を見つけることもなりたつ。

 現実に埋没しがちなのが政治家であり、そのいっぽうでそうなることを防ぎやすいのが学者である。政治家は現実に埋没しがちなのがあるために、たやすく大衆迎合主義(ポピュリズム populism)におちいりやすい。

 いまの政治では大衆迎合主義がまん延してしまっている。いまの時点の国民のことしかくみ入れず、未来の国民はどうかは放ったらかしになり、利益の先食いをして、未来の国民の利益を損なってでもいまの時点の国民に利益をばらまく。それで政治家は何とか支持をとりつけようとする。未来の国民のことにまで責任をもとうとはしづらい。

 創造性の点で見てみれば、政治家はそれが低くなりがちなので、それを改めるためには、学問や学者のことを重んじることがあったほうが有効だろう。学問は蓄積された資源であり、それは創造性の要素のうちの一つだ。それをうまく生かせていないのが日本の政治や社会だろう。日本は蓄積(ストック)よりも流れ(フロー)によるのがあり、そこから過去の(負の)歴史をひどくないがしろにすることがおきている。

 近代国家であればないとならないものだとされる国家の公文書館における公文書の管理が日本では長らくきちんとしたものではなかったという。わりとさいきんになって公文書の重要さに気がついたのが自由民主党の政治家だった福田康夫氏で、福田氏が総理大臣だったときに公文書の管理に力が入れられることが行なわれはじめた。これはたまたま偶然に福田氏が公文書の重要さに気がついたためだろう。福田氏の功績だ。

 もともと日本は明治のはじめから政治で官僚が力を持ちつづけていたのがあるとされ、官が治める官治主義だ。国民が主ではなかったので、国民が政治の主となるさいにいるものである公文書はないがしろにされつづけてきたという。国民ではなくて官(や政治家)が政治の主であれば、官に都合が悪いものや官がいらないと見なす公文書は残されず、いらなくなったら捨てられて、ときには都合よく改ざんされる。官(や政治家)の都合しだいだ。公文書をきちんと残したり、いざとなったときにお上が都合のよいように改ざんしたりしないようにすることがあまり行なわれていない(守られていない)ところに蓄積ではなくて流れを重んじるありさまが見てとれる。

 西洋は石の文化とされ、古いものが残されていて、それなりの持続性をもつ。日本は木の文化で、断続性をもつ。自然災害が多いこともあり、蓄積よりも流れによりがちだ。そのうえに創造性の低い政治家が、蓄積である学問のことを勝手にせまく判断しているためによけいに流れが主となっている。明治の時代のはじめから日本では実利や実益や実用にかたよりがちである。

 西洋では、いっけんすると実利や実益や実用をもたないような、非実利や非実益や非実用の哲学や文化にそれなり以上の価値が置かれている。それが教養だとされていて、それがあるていど身についていないと恥ずかしいことだとされている。西洋の政治家にはそうした認識があるとされるが、日本ではそれが逆になっていると言っても言いすぎではないだろう。

 教養といってしまうといまでは古くさいものであることはたしかだが、西洋とはちがい日本の政治では教養がなくてもとくに恥ずかしいことではないし、総理大臣にまでなれることがきちんと証明されていて、見識が低くても受けさえよければよしとされている(具体として誰とは言わないものの)。いかに恥ずかしさの感覚を失わせることができるのかが政治家のつとめになっている。学者のルース・ベネディクト氏が『菊と刀』で言ったとされるように、もともとは恥の文化なのが、いまの日本の政治では恥知らずの文化になってしまっているのかもしれない。政治権力が不正や悪いことをしても開き直りさえすればそれでよいとかそれですむのだといったように。

 日本では明治の時代から実利や実益や実用が主となっていて、生活が至上だ。生活は大事なものではあるものの、文化はそこからはみ出す過剰さ(excess)や余剰によるもので、生産ではなく消費や消尽(しょうじん)や蕩尽(とうじん)であり、そこに豊かさがある。余剰はあんがいあなどることができないものであり、余剰にこそむしろ生きる意味(または意味の充実)があるのだと言えないではない。おなじ消費や消尽や蕩尽であっても、それがたんなる破壊や破滅の方向に向かうのが戦争だ。日本の政治では破壊や破滅の方向に向かうかたむきがあることが否定できない。

 学者のエーリッヒ・フロム氏は、社会が破壊や破滅の方向に進んで行くのは、安全と正義と自由が損なわれることによるとしている。この三つが保たれていれば社会は何とか保たれやすい。戦争に向かいづらい。これらは憲法の価値と重なり合うもので、平和主義の武力によらない平和的生存権国民主権主義や個人の尊重や個人の自由の保障や権力の抑制と均衡(checks and balances)だととらえられる。この三つをどのように保つのかが政治家の創造性のはたらかせどころだが、創造性がない(低い)ために、この三つを壊すようなことを政治家がしているのが目だつ。

 まわりの国と敵対し合い、いたずらに緊張を高める。友好を築こうと努めない。経済の格差が開いていて不平等になっているのを放ったらかす。えこひいきを行ない、普遍化できない差別をして行く。特権化して特別あつかいを行ない短期の利益を得る。権力が求心化して一強や(三権ではなく)一権となっている。テレビの世界では、ほんらいは自由主義の公器であるべきところが、自由主義が失われてひさしく、政治権力をそんたくする(させられる)ことが多く行なわれている。

 ほんとうの意味での異端になりづらいのが政治家の世界であり、そのために長期の視点に立った政治家ではなく、いまの目の前の時点のことにしか目が向かない政治屋におちいりがちだ。自分の利益にかまけるのが政治屋だ。政治家は自分が得られる票が何よりも大切なのだから、気を抜くと政治屋になりやすいものだろう。

 中心を志向するのが政治家であり、そのために異端である辺境人にはなりづらい。周縁に身をおきづらい。よほど気をつけていないかぎり、中心にしか目を向けないことになりがちだろう。それと比べると学者のほうが異端になれるところがあり、辺境人になれる見こみがある。

 むかしには学者のガリレオ・ガリレイ氏は天動説にたいして地動説をとなえた。これはガリレオ・ガリレイ氏が異端である辺境人だからできたことだろう。画期の革新をなすことを言えた。このような異端の辺境人をよしとせずに、少しでもそうであるものにたいして、売国反日や非国民だとして排斥しようとするのが日本の社会ではおきている。これは中心を志向する政治家の発想によるところが大きく、創造性がひどく乏しくなることが危ぶまれる。中心を志向して、中心しかよしとしないのだと、さまざまにある日本の社会の中の資源をうまく生かしたり生み出したりすることができづらい。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『砂漠の思想』安部公房(こうぼう) 『内なる辺境』安部公房リベラルアーツの学び方』瀬木比呂志(せぎひろし) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂 『国家と秘密 隠される公文書』久保亨(とおる) 瀬畑源(せばたはじめ) 『公文書問題 日本の「闇」の核心』瀬畑源 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫