日本学術会議の記号表現(シニフィアン)があらわす記号内容(シニフィエ)をどのように見なすべきか―隠れた前提条件や含意による意味づけを表に洗い出すようにしたい

 政権が自分たちの気に食わない学者を、日本学術会議から外した。このことを見るさいに、この会をどのように見なすのかがある。会を見なすさいに、ふさわしい見なし方とはどういったものだろうか。

 会をどのように見なすのかでは、できるだけ中立なものとして見なすようにするほうがかたよりがおきづらい。非中立なものとして会を見てしまうと、そこに含意がこめられてしまう。含意をこめることには警戒をするべきだろう。はじめから頭からこれはよいとか悪いとか味方とか敵とかとするのだと、一面で決めつけることになり、ほかのいろいろな面や文脈をとり落とす。

 含意をこめてしまうと、隠れた前提条件がとられることになる。学術会議は反日売国や左派だからよくないとか、既得権益だからよくないとすることによって、含意がこめられるようになり、見なし方が非中立になる。

 反日売国や左派や、既得権益とすることは、隠れた前提条件となるが、それによってそれらがよくないこととされて、否定による意味づけや価値づけや評価づけが行なわれる。なぜよくないのかがおもてに洗い出されない。たんによくないのだとされることになり、悪玉化されて行く。

 含意がこめられて、否定の意味あいをともなうと、そうした共示(コノテーション)をもつようになる。その否定の意味あいをもつ共示をとらないようにして、中立のものとして見直すように改める。共示をともなわないようにして、指示(デノテーション)のところを見て行く。

 共示をともなった形だと、記号表現がどのような記号内容をもっているのかが非中立のものになりやすい。記号表現があらわしている内容や質を見て行くさいには、共示をともなわない形になるようにして、中立になるようにして見ていったほうが、ゆがみがない(少ない)形でとらえられる。共示をともなわせてしまうと、ゆがんだ形で内容や質をとらえることになるおそれがある。

 西洋と東洋でいうと、西洋は優れていて先進で東洋は劣っていて後進だといったような共示がとられることがある。そうした共示をともなった内容や質のとらえ方だと、西洋や東洋のことをゆがんだ形でとらえるまずさがおきるから、それを避けるようにするのは手だ。

 共示をともなわせずに、西洋と東洋の記号表現がさしあらわす内容や質を見て行くようにすれば、線の進みぐあいのようにして、西洋が進んでいて東洋が遅れているとは必ずしも言い切れない。同じ線上には並べられないところがある。それぞれによさがあり悪さがあるととらえることがなりたつ。

 西洋つまりよいとか進んでいるとは言い切れないし、東洋つまり悪いとか遅れているともいちがいには言い切れそうにない。とはいえ、どのような特殊なあり方であってもそれが許されるとは言えないが。たとえば中国の国がやっている少数民族への洗脳などは、西洋の普遍の理念からいって批判されるべきものである。

 隠れている前提条件を表に洗い出すようにして、たんに学術会議が悪い会だとかよくない会だとかとしてしまわずに、それをできるだけ共示をともなわない形で中立に見て行くことがまずいることなのではないだろうか。そのうえで、もしも会が悪かったりまずかったりするのであれば、どうしてそのように言うことができるのかの前提条件を表に洗い出すようにして、はっきりとわかる形にした上で、どういうものさしに照らして悪いのかやよくないのかを言ったほうがわかりやすい。

 共示や含意をもたせた形で会を悪いとかよくないと見なすのだと、ゆがんだ形で内容や質を見ることになりやすいから、それそのものがいま一度見直されることがあったほうがよい。共示や含意をともなわせずに、中立の形においてどのように見なすことができるのかや、記号表現がどのような内容や質を示しているのかを見ることは、まったく益にならないことではないだろう。よいや悪いや味方や敵を二分法ではっきりとは割り切らない形で、それらをとりあえずいったん抜きにして、そもそもそれが中立として何なのかの内容や質を見て行くこともあるていどできるはずだ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『現代思想を読む事典』今村仁司