政権のかたよった学者の選び方と、(自由民主党の)政権に致命的に欠けている学術性

 政権が、自分たちの気に食わない学者を、日本学術会議から外した人事は、ふさわしいことなのだろうか。このさいに、政権のもつまずさとして、他から質問されたことにきちんと答えないでいることがある。他から問いかけられたことにたいして、政権がまともに答えていないことが多い。

 政権のやったことをかばう声として、学術会議は会そのものが反日売国や左派だからよくないものなのだとツイッターのツイートで言われていた。会が既得権益になっているからよくないのだとも言われていた。

 かりに会が反日売国や左派や、既得権益になっているのだとしても、それだからといって、政権が気に食わないと見なす学者を会から外す人事を行なうことがなぜいるのだろうか。政権が気に食わない学者を会から外せば、それをもってして会が反日売国や左派や、既得権益ではなくなったのだろうか。それだとしたら、会がそうなのではなくて、会から外された学者が反日売国や左派や、既得権益だとなり、会よりも会から外された学者を悪玉化することになる。

 学術によるふるまいが欠けているのが政権だといえるのがあり、学術会議の人選について、学術会議の会そのものを反日売国や左派や、既得権益だと見なすのだと、非学術的になってしまいかねない。学術会議の会をどのように見なすのかについて、それを非学術的にではなく、できるだけ学術によって見なすようにするべきだろう。

 学術会議には学術が足りているだろうが、それがいちじるしく欠けているのが与党の自由民主党による政権だ。政権は非学術的になっているために、非学術的な行動をとっていて、非学術的な声をうながしてしまっている。そこから、学術会議の会を反日売国や左派や、既得権益とするような、学術によるとはいえないような決めつけの非学術的な声が出てくるのだろう。

 学術が欠けていて、非学術的になっている政権が、学術会議の人選を行なう。学術が足りていない者(政権)が、学術をとりあつかう。そこから政権が不適切なことをしたり言ったりすることがおきてくる。

 かりに欠如モデルで見られるとすると、学術が欠けているのが政権だから、政権が少しでも学術を身につけて行くことがいる。それにはそうとうな時間と労力がかかるだろう。それとはちがい、対話モデルで見られるとすると、対話のやり取りをしようとしないのが政権だから、政権が自分たちから対話をしようとしなければならない。政権に反対する声をきちんと受けとめるようにするべきである。

 学術によるようにするためには、政権が他から問いかけられたことにまともに答えるようにして、いい加減にごまかしたりはぐらかしたりしないようにすることがいる。他から問いかけられたことにまともに答えようとはせずに、ごまかしたりはぐらかしたりして、それでこと足れりとするのだと、政権に学術が欠けたままになってしまう。

 ものごとをきちんと明示化しようとはせずに、暗示化したままでものごとをおし進めようとする。明示化して十分な量と質による説明をしようとはしない。ただ政権のやることや言うことが正しいのだとして、それについて行って従っていさえすればそれでよいのだとする。政権の顔色をうかがうことやそんたくや空気を読むことをうながす。それだと権力の奴隷やたいこ持ちが多くはびこるようになり、学術が損なわれてしまう危なさがおきてくる。

 学術をなすためにいる科学のゆとりをもってじっくりとやって行くのではなく、てっとり早く省力的にものごとをなそうとすると学術はできづらい。もともと学問はひま(ギリシア語でスコレー schole、学校 school や学者 scholar の語源)やゆとりがないとできづらいものであり、政治(家)や経済(実業家)の世界のような多忙さとは相性があまりよくない。

 ひま(ラテン語でオティウム otium)やゆとりは前近代のときに価値をもっていて、労働者よりも自由人のほうが価値があるとされていた。労働が価値をもちすぎないように抑制されていた。自然の環境を大きく破壊することが抑えられていた。近代では逆に多忙さや労働や非余暇(ラテン語でネゴティウム negotium)が価値をもつ。多忙さは busy であり商業活動(business)だ。近代では労働が中心化されて、そこに大きな価値が置かれる。それまではあるていど労働や商業に歯止めがかけられていたものが解き放たれて、お金さえもうかればといったような数量による経済至上主義のようになって行く。

 明示性がとられづらく、それが欠けやすいのが日本の政治だと言われている。そのわけとして日本は高文脈な文化と低文脈な言語を持っていることによると言われている(学者のエドワード・T・ホール氏による)。言わなくてもわかるといったようになりやすい。政治では意思決定の過程が明示されづらい。意思決定の過程を記録として残すことがきちんと行なわれず、たとえ記録が残されていてもいざとなったら証拠をいん滅することが行なわれてきた。明示性がなくゆとりが欠けて行くと、国の全体がまちがった道に進んでいってしまうことになるおそれが小さくない。

 参照文献 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『コミュニケーションを学ぶ』高田明典(あきのり) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『古典の扉 第二集』杉本秀太郎(すぎもとひでたろう)他