アメリカの大統領選の討論と、討議の倫理―トランプ大統領の討議の倫理の欠如

 アメリカの大統領選で、討論が行なわれた。その中で、現職のドナルド・トランプ大統領と候補者のジョー・バイデン氏は、おたがいにまともな議論をし合うことにはならなかった。おもにトランプ大統領が議論のじゃまばかりをして、まともな議論をなりたたせることのさまたげをしていたという。

 トランプ大統領とバイデン氏の討論を、交通の点から見られるとするとどのように見られるだろうか。その点から見られるとすると、トランプ氏にいちじるしく欠けていることとして、討議の倫理(ディスクルス・エティーク diskurs ethik)がある。これはドイツの哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏が言っていることである。

 討議の倫理がいちじるしく欠けているのがトランプ大統領だったために、まともな議論がなりたつことがなかった。議論の中でおたがいにやり取りをし合うことによって、双交通となり、実りのある内容が見こめる。そのためには討議の倫理をもつことがいるが、トランプ大統領にはそれが欠けているために、反交通や一方的な単交通にしかならなかった。

 とにかく自分は正しいのだとするのがトランプ大統領には強すぎるために、自己欺まんの自尊心(vainglory)が目だつ。自分さえよければよいのだとなり、議論のじゃまをすることになる。トランプ大統領が何か一つ言ったら、バイデン氏がそれと同じく一つを言うのなら量がつり合う。つり合いを抜きにして、たとえ量が不つり合いになったとしても自分さえ有利になればそれでよいとしたのがトランプ大統領のやり方だろう。

 言うことの量と質がきちんとしたものであることがいるのが討議の倫理ではあるが、トランプ大統領はどうかを見てみると、量にも質にもまずいところがある。トランプ大統領の言うことの量にも質にもまずいところがあるのなら、アメリカの国や社会がよくなることは見こみづらい。それが見こみづらいのは、交通においてのぞましい双交通がなりたたずに、反交通や単交通となるために、反対勢力(オポジション opposition)の声がすくい上げられづらい。国や社会の中になげきの重荷がたまって行き、緊張がやわらげられないで高まって行く。

 交通において反交通や単交通になっているのを改めて、おたがいにやり取りをし合う双交通にして行き、アメリカ第一主義を相対化することがあったほうが、かえってよくなることがあるかもしれない。アメリカにおいてはアメリカを中心とするのは当たり前のようではあるが、そこをあえて脱中心化するようにして、自国を絶対化する中華思想(または排他的な例外主義)におちいるのを防ぐ。

 アメリカが第一だとして、アメリカを絶対的に中心化するのではなく、自制心をもち、自国の自己保存を相対化して、自己批判をして行く。アメリカにかぎらず、どのような国であったとしても、自国を絶対的に中心化しないことがあれば、そのほうがかえってうまく行くことはまったくないことではないだろう。

 一つの国はそれだけでなりたっているのではなく、ほかの国があってはじめてなりたつ。関係主義からするとそう言えるのがある。関係の第一次性があり、さまざまな国どうしの関係の網の目の点に当たるのが一つの国だ。宗教の仏教では縁起がいわれるのがあり、縁起であるほかの国との関係があることによってアメリカならアメリカがなりたつことになる。それがあるといえばあり(仮観)、ないといえばなく(空観)、関係の網の目の点として生成するものである(中観)といえるだろう。時間の流れによっていやおうなく生成変化して行く。無常である。

 仏教でいわれる空においては、たとえば太陽はあとおよそ五〇億年すると地球を飲みこむほどに大きくなって行くという。それで地球には生物が住めなくなる。およそいまから四〇億年ほど経つと地球はあまりに暑くなりすぎて人間を含めた生物は生きて行けなくなる。太陽も地球もやがては星としての寿命がきて消滅する。

 人間は単細胞生物ではなくて多細胞生物であるために、ずっと生きて行きつづけることはできず、ほぼ必ず死ぬ(例外的に不死身でなければ)。多細胞生物には性と死があり、性では性別(性差)や生殖がある。人間は多細胞生物であるために、一つひとつの細胞の仕組みとして、その細胞の中に死が刻印されていて組みこまれている。多細胞生物の遺伝子は時間が経つことで傷がついて行き細胞が駄目になって行く。だんだんと細胞につく傷を治す力が落ちて行く。乱雑さ(エントロピー)が増えて行く。乱雑さを外に吐き出すことができなくなる。

 いまから一〇〇年経ったら、または二〇〇年経ったら、いま生きているすべての人は地上にはいない。一人残らずきれいに死んでいる。そういう点で、みんなが運命を等しく共にしているともいえるだろう。

 中国の思想家の莊子(そうし)は万物斉同(ばんぶつせいどう)と言っているが、引いた距離から見てみれば、みんなが死ぬ運命を共に抱えている点で等しいのがあり、そこまでちがいはないかもしれない。ちがいでは、たとえばトランプ大統領がきらう極左(左派)かそうでないかの分類づけは、それが絶対としてあるよりはむしろ、そういうものさしを当てることによってはじめてなりたつものだろう。ものさしを当てはめることによる主観の解釈を抜きにして、客観に分類づけがなりたつのではない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『知の古典は誘惑する』小島毅(つよし)編著 『法哲学入門』長尾龍一 『大学授業がやってきた! 知の冒険 桐光学園特別授業』 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)