自助と公助と共助と、効率化や複雑化した社会の中に置かれる個人―創造性を高めづらい

 自助と公助と共助が国の基本だ。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っていた。これらの三つについてを、生活と政治に分けて、創造性の点から見てみたい。

 菅首相が言うように、自助と公助と共助があるとして、じっさいにそれらをなすことはたやすいことなのか、それともたやすくはないことなのだろうか。生活や政治においてそれらがうまく行なわれていて、個人や社会の創造性は高いと言えるのか、それともそれらがうまく行なわれていない(うまく行っていない)ことによって、個人や社会の創造性は低いのだろうか。

 個人の生活では、人によっては創造性を高めづらいことがある。自助をなすさいには、創造性の MRS 理論における動機づけ(motivation)と資源(resource)と技術(skill)の三つをうまく用いて行くことがいるが、これらの三つを高めづらいことは少なくない。

 低賃金の仕事をさせられていて、先行きに明るい光明が見えてこない。出口が見えてこない。こうした中では、個人はがんばってやって行こうという動機づけをもつことが難しくなってくる。それは個人がいけないのではなく、社会がいけないのだと言うしかない。社会の中に不平等つまり階層の格差がおきていることが大きい。その階層の格差が固定化されている中では、個人が動機づけを高めようとしても難しいのがある。

 世の中が複雑化している中では、たよりになるようなよすがや軸を見つけづらいのがあり、社会の中における自分の位置づけや意味づけを見いだしづらいため、動機づけをもちづらくなる。社会と自分との接点を見いだしづらく、社会の中のどこに自分が位置しているのかや、その位置のもつ意味あいや、社会の中において自分が何のために何をやるのかが不たしかになる。このために生きているのだといったはっきりとした生の目的や行動の目的をもちづらい。

 たしかなよすがや軸がないことで虚無主義におちいるようになる。神の死となって最高価値の没落がおきて価値の多神教となる。その中でまちがった権威主義による国家主義がはびこり求心化がおきて行く。その求心の中心の点となる国家または政治の権力者は、個人の超自我の虚構(非実体)の虚焦点に当たるのだと精神分析学者のジグムンド・フロイト氏は言う。じっさいには国家や政治の権力者は(A だから A だといった)自己循環論法によっていて、たしかな根拠を欠き、その底には穴が空いているがその穴はフタでふさがれていて見えづらく加工されている。穴の忘却や隠ぺい(ギリシア語でレーテー lethe、レーテイア letheia)だ。

 何の目的のために何をやっているのかがわかりづらいのは、社会が効率性を重んじすぎていて、効率を優先させることが自己目的化していて、そのことによって生の意味が空洞化しているためだ。個人の質は切り捨てられて、量だけによって評価づけがされる。質はわかりづらく効率が悪いためにとり上げられず、量が重みをもつ。量に重みが置かれることによって生の意味が空洞化することになり、生の充実をもちづらい。たんに量を追うだけになり、量に支配されることによって、生への動機づけをもちづらい。

 生活の中で個人が困っているのであれば、そこに救いの手となる公助や共助がすみやかにさし伸べられることがふさわしい。それがすみやかにさし伸べられるのかといえば、そうはなっていないのが日本の社会ではないだろうか。たんに個人の努力が不足しているとして、自助が欠けているのだとして片づけられてしまう。個人の自助が欠けているから駄目になっているのだとする自己責任の価値観が社会の中にはある。自助ができづらいのにもかかわらず、自助が欠けているから駄目だとされることで、個人は二重拘束(double bind)をこうむる。

 生活とは別に、政治においては、個人が創造性を高めることがはばまれてしまっている。個人が政治において主体性をもって自助や公助や共助をなして行くことができづらい。それができづらいのは、国民が主権をもつことがないがしろにされていて、政治家(政治屋)と役人と利益団体(財界など)との強い三角形が形づくられていることによることが大きい。

 政治においては、個人が創造性を高めないで、自助や公助や共助がなされないほうが、政治家にとっては都合がよい。個人がへたに政治に関わらないほうが、政治家にとってはやりやすい。個人がへたに政治において自助なんかをしてもらっては困る。政治に関心をもって、政治における創造性を高められたら、政治家が政治をやりづらい。

 日本の主流つまり与党の政治家の視点に立ってみれば、個人が政治において自助をなして、政治に関心をもつのはかえってよいことではないことになる。個人ができるだけ政治にかかわらないようにして、いかに合理の無知のままにしておけるか。合理の無知とは、個人が政治に関心をもたないで、生活にだけ関心を向けているありようだ。

 政治家にとってみれば、国民が合理の無知であることや合理の棄権をしてくれていたほうがよい。合理の棄権とは、選挙に行かないで投票をしないことである。投票率が低いほうが組織力が強い与党にとっては有利にはたらく。投票率が低いことが絶対によくないことだとは言い切れないが、政治家への緊張感や圧力や監視がかかりづらくなる。一人ひとりの有権者が投票にもれなく行かないと代表制の民主主義のぜんまいが十分に巻かれない。

 政治においては、自助や公助や共助がうながされているのではなくて、むしろそれが上からさまたげられている。そう見なしてしまうと陰謀理論を持ち出すようなところがあるのはたしかだが、もしも政治において自助や公助や共助がいえるとすると、それには公民の共和主義(civic republicanism)が当てはまる。

 公民の共和主義とは、国民が政治に参与することが重要だとして、そこに大きな力点を置くものだ。国民が政治にたいして関心をもてば、それだけ創造性のうちの動機づけが高まることになって、うまくすれば創造性の全体が高まって行きやすい。日本ではその逆に、いかに国民の創造性を高めないで低いままでいさせるかがとられている。日本の政治においては、公民の共和主義をしてもらっては政治家にとってははなはだまずいことなのである。国民を政治に近づけるのではなくて、遠ざけることが主となっている。たとえ近づけるにしても、表面の大衆迎合主義(ポピュリズム)がとられることが少なくない。

 参照文献 『一冊でわかる デモクラシー a very short introduction』バーナード・クリック 添谷育志(そえややすゆき)、金田(かなだ)耕一訳 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『若者は、選挙に行かないせいで、四〇〇〇万円も損してる!? 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『リヴァイアサン長尾龍一政治学入門』内田満(みつる)