与党である自由民主党の議員が言ったとされるように、女性はいくらでも嘘をつくのかどうか―自然主義の誤びゅう

 女性はいくらでも嘘をつく。性被害においてそうしたところがある。与党である自由民主党の女性の議員はそう言ったのだとされている。

 女性はいくらでも嘘をつくのだと言った自民党の議員は、自分が女性であることから、自己言及として自民党の議員の発言が嘘になるのではないかとツイッターのツイートで指摘されていた。

 自民党の議員が言うように、女性はいくらでも嘘をつくのだと言えるのだろうか。このことを逆(対偶)から見てみられるとすると、いくらでも嘘をつくのではないのであれば女性ではないことになる。

 何々である(is)から何々であるべきだ(ought)を導くのが自然主義だが、これは誤びゅうだとされていて、自民党の議員の言っていることはこれに当てはまる。女性であるのなら、いくらでも嘘をつけるとしているので、is から ought を導いてしまっている。

 自然主義の誤びゅうは、ナチス・ドイツユダヤ人を虐殺したときに見られたものだ。ナチス・ドイツは、ユダヤ人であれば悪いとすることで、ユダヤ人をせん滅して行った。ユダヤ人であることが悪いことだとされたのがあり、is から ought を導くことには危険性がつきまとうことが見てとれる。自然主義の誤びゅうにおちいらないようにできるだけ気をつけて行きたい。

 女性の一般がいくらでも嘘をつくのかといえば、そのように完全にしたて上げることや基礎づけることはできづらい。女性についてをいくらでも嘘がつけるものとして見なすことは、そのようにしたて上げたり基礎づけたりすることになるが、それには待ったをかけたい。

 世界の全体にはおおよそ四〇億人くらいの女性の集合があるわけだが、その四〇億人ものぼう大な数にのぼる集合の全体を、一つの質をもってして決めつけるのには無理がある。たった一人の人間の中であったとしても、一つの質では決めつけられないところがあり、色々な矛盾した両義の性格をもつ。色々に変わることがあるような可塑(かそ)性を少なくとも潜在的にはもっている。

 場合分けをしてみると、女性であっても嘘をつくこともあればつかないこともあり、男性であっても嘘をつくこともあればつかないこともある。これは性別のちがいによっていることではなくて、人間が言葉を用いるさいに嘘をつくことがおきてくるためだ。

 性別のちがいからではなくて、女性であっても男性であっても、どちらにしても言葉を用いるのがあり、言葉を用いることから嘘をつけるようになる。言葉が嘘をもたらす。

 哲学者のカール・ポパー氏の世界三の理論によると、言葉は世界三に当てはまるものだ。世界一は物の世界だ。世界二は心や意識や感性や意図だ。言葉が属する世界三は、観念による構築物が当てはまるという。

 嘘をつけるのは、心である世界二と、言葉である世界三とがずれていることがある。心で思っている意図や思わくをつねにじかにそのまま言葉にするとはかぎらず、じかにそのまま言葉で言いあらわさないことは少なくない。そこから言葉の多層性がおきてくることになる。じかに言わないようにして、遠まわしにほのめかすことがあり、それがよくはたらくことがある。実と虚のあいだのあわいがなりたつ。ことわざで言われる嘘から出た真や、虚をもって実をうがつと言われるように、虚であるほどかえって実がよりよく映し出されることも中にはあるだろう。

 現実の物質のありようである世界一をとらえるさいに、心や言葉である世界二や世界三がかかわってくるので、そこから観念化された現実のとらえ方がおきてきて、何らかの形で現実とのずれが引きおこってくる。物語化された現実が形づくられる。生の体験や経験が型にはめられて形式化されないとみんなにわかってもらいづらく共有されづらい。そういう点で、(観念そのものが悪いのではないが)観念という汚れが多かれ少なかれ付着した形で現実をとらえていると言えるだろう。あらかじめの予断や先見がはたらく。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『神と国家と人間と』長尾龍一智慧の実を食べよう 学問は驚きだ。』糸井重里現代思想を読む事典』今村仁司