昭和天皇を否定する作品と、税金のふさわしい使い方―有用性の領域と至高性(非有用性)の領域

 昭和天皇を否定する作品に税金を使ったのはおかしいことだ。税金の使い方がまちがっていたとして、その当人である愛知県の県知事にたいしてリコールの運動がおきている。

 昭和天皇を否定する作品をあつかう芸術のもよおしに税金が使われた。そのことをもってして、愛知県知事は職を辞めることがいるのだろうか。昭和天皇を否定する作品をあつかう芸術のもよおしに税金を使うのは、どこからどう見ても完ぺきにまちがった税金の使い方だったのだろうか。そこに一円たりとも税金を使うべきではなかったのだろうか。

 昭和天皇を否定したことがいけなかったのかどうかと、税金のふさわしい使い方がどうかを、切り分けるようにしたらどうだろうか。その二つを切り分けるようにしたほうが少しわかりやすくなる。その二つがごちゃごちゃになっていて混ざり合っていると、主張が混同している印象がある。

 昭和天皇のことはさしあたって置いておけるものとすると、税金のふさわしい使い方がどうかというのはけっこう難しい問題なのではないだろうか。とりわけ文化や芸術に税金を使うのは、すべての人を納得させられるようにはできづらい。

 国民のすべてにとって益になる税金の使い方ならまずいところはないが、そうではないのだとすると、無駄かどうかが関わってくる。無駄かどうかは、学者の西成活裕(にしなりかつひろ)氏の無駄学によると、目的と期間と立ち場によってちがってくるという。どういう目的かやどういう期間の長さや短さかやどういう立ち場かだ。その三つは人それぞれによってちがっているから、すべての国民を納得させることはできづらい。

 文化や芸術は、社会の表の面よりも裏の面をもつ。社会の裏の面には反社会のところがある。社会にたいする自立性をもつ。社会との距離をもつ。社会と距離をもっていて、社会にたいして自立性を持っていないと、自立した表現はできづらい。自立していないと社会におもねることで終わってしまいかねない。

 社会の表の面は、明るさとか生産性とかの有用性の回路の中にある。その有用性の回路の外に出るものが社会の裏の面であり、そこに文化や芸術は(片足は)属しているのがある。有用性の回路の外にあるものは有用性のものさしでははかりづらいものであり、消費や消尽(しょうじん)や蕩尽(とうじん)のものだ。何か有用なものを生み出すものであるよりは、何かを消費するものである。

 精神分析学のジグムント・フロイト氏は、人間の心理には生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)があるとしている。社会の表の面に生の欲動があるのだとすると、それだけではなくて社会の裏の面には死の欲動もまたある。生の欲動だけをよしとすると、死の欲動がとり落とされてしまう。死の欲動に関わるものである、社会の中の呪われた部分や退廃(デカダンス)のところをとり落とさないようにしたほうが、人間や社会の全体のつり合いを大きく崩しづらい。

 税金の使い方として、有用性の回路の中にあるものは、有用性や生産性があるとされやすく、納得を得やすい。中心化されやすい。そのいっぽうで、有用性の回路の外にあるものは、有用性や生産性を欠いたものと見なされやすく、税金を使うことの納得を得づらい。周縁化されてわきに追いやられて、社会の中から抑圧されて否定されることになる。

 固定化されている中心と周縁の遠近法を逆転させるようにして、中心のものを脱中心化させて、周縁のものを中心化させることが、日ごろのものの見かたを異化させることにつながって行く。その異化の作用をもつところに芸術や文化の意味あいの一つがあるのだと言えるところがある。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想の遭難者たち』いしいひさいち 『美学理論の展望』上利博規(あがりひろき) 志田昇(しだのぼる) 吉田正岳 『貴人論 思想の現在あるいは源氏物語』宮原浩二郎 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ)