国の借金のこと(客観)ともの(主観)の面―構築された問題

 国が借金をすることは悪いことなのか、そうではないことなのか。そのどちらなのかがある。そのうちで悪いことだと言えるとすると、原則として悪いのだと言えるのがある。

 たとえどこの国であったとしても、国がいくら借金をしてもよいのだとする原則がとられている国はないだろう。いくらでも国が借金をし放題でもかまわないとしている国があるとは言えそうにない。将来のためになるとされる建設国債などの一部の例外をのぞいて、国が借金をすることは原則として否定されているのが一般的だ。

 国が借金をするのは原則にたいする例外として行なわれることになる。例外として国の借金が行なわれるさいに、原則を守れなかったのだから、具体の義務に反することになり、それが悪いのだと見なせる。

 具体の義務に反することになるから、国が借金をすることは悪いことだと言えるが、それにたいする意味づけのしかたによっては、とらえ方にちがいがおきてくる。国が借金をすることそのものは事実空間によるものだが、それをどのように意味づけするのかは意味空間によるものだ。

 事実空間つまりもの(客観)としての国が借金をする行ないがあり、それを意味づける意味空間つまりこと(主観)がある。客観だけでもなく、主観だけでもなく、その混合の合金(アマルガム)となっている。客観のものにたいする主観のことの意味づけのしかたしだいによっては、それが悪いと見なされることもあり、その逆によいと見なされることもおきてくる。

 純粋な客観として国が借金をすることが問題であるというよりは、その問題は構築されたものだとすることがなりたつ。純粋な客観として問題をしたて上げて絶対的に基礎づけすることはできづらい。構築されたものなので、とんでもなく深刻で大きな問題とすることもできるが、まったく問題がないまたはごく小さな大したことがない軽い問題にすぎないとする人もおきてくる。悲観論と楽観論の両方がおきてくる。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ) 『社会問題の社会学赤川学 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)