与党である自由民主党のあたらしい政権と、場面の切り替わり―場面の切り替えによるごまかし

 あたらしい政権の支持率が六割や七割になっていると報じられている。自由民主党菅義偉首相の政権は、出だしとしてはそれなりに支持されている。数字を見れば表面的にはいちおうそう言えるのがある。

 まえの首相からあたらしい菅首相の政権に変わったのは、場面が切り替わったのにすぎない。場面が切り替わっても、それは表面のよそおいが変わっただけだから、中身は変わっていない。いうなれば洋服をとりかえただけであり、体はほぼもとのままだ。その体が不健康なのであれば、それがそのまま引きつがれている。

 たとえ場面があたらしく切り替わったのだとしても、それによってまえのことをかんたんに水に流してしまってよいものだろうか。あたらしくまったくの〇から仕切り直すことになるのだろうか。与党にとって都合の悪いことはすべて無いことになり、ご破算になったのだろうか。

 場面が切り替わっても、緊張(テンション)は引きつがれている。あたらしい菅首相のまえの首相の政権がためこみつづけた緊張の高まりがあり、それをそのまま引きついでいるのがあるから、緊張がすっかりとなくなったとは言えないだろう。社会の中に目を向ければ、社会の中のなげきの重荷がすくい上げられていなくて放ったらかしになりつづけている。

 まえの政権による緊張がためこまれているのがあり、それにくわえて緊張をためこむ体質が変わっていない。政権にとって都合が悪いことを言うことにたいして、政権は耳を貸そうとはしない。それによって緊張がたまることになり、高まることになる。交通でいうと単交通や反交通のあり方であり、双交通の欠如だ。

 与党である自民党は自分たちで自分たちの組織をきれいにする自浄作用をもはや失ってひさしい。いろいろな不祥事をためこみつづけて、それを隠ぺいしてごまかす組織になっている。国民に情報を公開して行くようにするのがのぞましいが、それと逆行したことをしつづけようとしている。国民の自己統治と自己実現がはばまれている。

 きびしく見てみれば、色々な不祥事をためこみつづけてごまかしつづけているのが自民党であり、またいまの政権だというのがある。もっとほかの色々な見かたもできるのはあるが、きびしい見かたによるのだとすると、組織の負のことや、広くは日本の国や社会の負のことを、隠ぺいして忘却して風化させつづけようとして行く。場面を切り替えることでそれをして行く。

 場面を切り替えただけでかんたんに水に流してしまわずに、しつこいのはあるが、与党や日本の国や社会が抱える負のことをしっかりと追って行くようにして、かんたんに隠ぺいや忘却や風化させないようにして行きたい。ごまかしのフタでおおいがしてある下には穴が空いているのがあるから、その穴を見つけて行って、穴があることをさし示すようにして行きたいものである。

 参照文献 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『言の葉の交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹