首相がかわいいかどうかと、ゆるふわな支持

 安倍首相にたいするゆるふわな支持があるという。首相がかわいいことがよしとされている。そういったよしとされるあり方があるのだというのがあった。

 首相のかわいさへのゆるふわな支持は、硬派と軟派でいうと、軟派に当たるものだ。ゆるふわというところに軟派さが見てとれる。

 首相がかわいいかどうかは、客観のものとは言えそうにない。主観としてかわいいととらえる人がいてもよいわけだが、それは首相の一つの像ではあるが、じっさいの生のありようとはいえないものだろう。

 首相をものと見なせるとすると、それをかわいいと見なすのはことが関わっている。ものは客観でありことは主観だ。ものは物理の事実空間でありことは観念の意味空間による意味づけだ。ものをことによって意味づけすることで、(人によっては)かわいいという感情がわく。

 かわいいと見なすのは、軟派なのがあり、それを硬派の点から見てみられるとすると、あいまいさがある。見なしかたしだいによって色々なことについてをかわいいと言ってしまえるのがあるから、かわいいとすることの適用の範囲はかなり広いのがあり、首相の独自の特徴とは言えないところがある。

 よっぽどどこからどう見てもかわいくないものでないかぎりは、色々なものについてを、かわいい角度から見られるのがあるから、そういう角度から見ているのにとどまり、限定化される。本質としてかわいいかどうかには疑問符がつく。主体の見なしかたが対象(客体)に反映しているのがあり、再帰性(reflexivity)がある。

 かわいいのがよいとするのは軟派の点からは言えるが、かわいくないほうがよいとするのが硬派の点からは言えるのがある。かわいくなくても中身があったほうがよい。かわいくても中身がないのなら問題だ。かわいさとは形式によるものであり、実質や内実がなくても許されるのだと、ごまかしが通じることになる。

 やわらかい軟派なものとして見なすのがかわいいということであり、それによるゆるふわな見なし方をすることで、柔らかい食べものを食べつづけるようなことになり、固いものが食べづらくなる。固いものを消化しづらくなって行く。易しいほうや肯定性のほうへ流れて行く。硬派の点からすると、易しいほうや肯定性のほうへ流されすぎるのを防ぐために、やわらかいものではなく固いものを食べたほうがよいから、固いものを消化できたほうがよい。

 たとえ駄目だとされるものやよくないものであったとしても、それを軟派のかわいいとする点から、よしとされてしまう。その危なさがあるから、それに気をつけておくことがあってもよいことだろう。硬派で見るようにして、現実主義から離れすぎないようにしておいて、へんな(映像などによる)偶像がつくられないようにしたほうが危なさは少ない。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ)