愛知県の県知事にたいして辞職をせまる運動が行なわれていることと、天皇のふり子の両極性

 愛知県の県知事にたいして、知事の職を辞任することを求める運動が行なわれている。昭和天皇のことを否定するような芸術の作品をあつかったもよおしを愛知県知事がよしとしたことから、県知事の職を辞任することがいるのだというのである。

 辞任を求める運動をしている人たちが言っているように、愛知県知事は知事の職を辞任することがいるのだろうか。そのさい、辞任を求める人たちと、県知事とのあいだで、天皇にたいする認識の枠組みのずれがあるのだと見られる。

 天皇は、戦前や戦時中の神聖さと、戦後の象徴との二つの性質をもつ。このうちで、愛知県知事に辞任を求めている人たちは、天皇にたいして、戦前や戦時中の神聖の枠組みをもつ。そのいっぽうで、県知事は象徴の枠組みをもつ。

 天皇を神聖の枠組みで見るのは、その行きつく先としては、力の肥大化とその破滅である。破滅の極点に当たるのが戦争に負けた時点だ。それで戦後は象徴の枠組みでとらえるのがふさわしいあり方になった。

 ふり子の動きがある中で、天皇には極大と極小の二つがあるとされ、極大が神聖であり、極小が象徴である。このうちで、愛知県知事に辞任を求める人たちは、戦後の極小の象徴のあり方を否定していて、極大の神聖を志向しているのがある。そういう反動のところがかいま見られる。

 昭和天皇を否定するような芸術の作品は、まさに戦前や戦時中において、天皇が神聖とされて、極大となったことで、国の内や外に多大な犠牲や害をもたらしたことを批判するような意味あいをもつのではないだろうか。そうであるとすると、それの意味するところに向き合い、過去のあやまちをふり返るようにすることは、いまの日本にとってまったく益にならないことではないだろう。

 ふたたび戦前や戦時中のように、天皇を神聖なものとして、極大にして肥大化させて、天皇のことを絶対的に神格化するのだとすると、過去のあやまちをくり返すことになってしまうことになりかねない。

 過去において、天皇が神聖なものとされて、極大のあり方になり、日本の国が破滅に向かってつっ走っていって、じっさいに破滅にいたったというのは、否定しがたいところがあるから、その失敗をくみ入れるようにして、いまに生かすようにするのはどうだろう。そうするのであれば、いたずらに天皇のことを過去と同じように神聖なものとして極大のあり方にするのは少なからず危険だ。

 天皇の両極性のふり子が戦後の極小の象徴のあり方にとどまっているうちはまだよいが、戦前や戦時中の極大の神聖のほうに振れると、過去と同じように天皇がもとになって国の内や外に大きな犠牲や害をまねくことが絶対におきないとは言い切れそうにない。また、過去のことについてでは、天皇の両極性のふり子のうちで、極大に振れたことによって国の内や外に大きな犠牲や害をもたらしたことについての反省が日本は国として十分にできているとは言えず、そこがいちじるしくおろそかになっている気がしてならない。

 たとえ日本の国にとって都合が悪い過去のことであったとしても、日本の国がかかえる呪われた部分から目をそむけるのではなくて、その呪われた部分に向き合うことがあったほうが、日本の国にとって少なからず益になるところがあるのだと見なしたい。日本の国はけっして悪くはなく、まわりの国が悪いのだとしてしまうと、日本の国がかかえる呪われた部分に向き合うことにはならず、これまでと同じように、それから目をそむけつづけることになってしまう。日本の国がかかえる歴史における否定の契機を隠ぺいすることになり、その隠ぺいをさらに隠ぺいするという二重の消去が行なわれることになる。

 参照文献 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思想の星座』今村仁司 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)